【国学とは】簡単にわかりやすく解説!!どのような学問?内容や影響など

 

国学は一度生まれてからは様々な変容を得て、江戸時代の政治にまで強い影響を与えた思想です。

 

今回は国学の歴史、内容、影響について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

国学は思想問題を含みますので難しい内容もあります。どうしても難しい場合は太字だけをたどってみてください。

 

国学とは

国学とは、江戸時代に『古事記』『万葉集』など日本の古典を研究し、儒教・仏教が日本に影響を与える前の日本人独自の民族精神を明らかにしようとした学問です。

 

民族精神とはここでは「考え方」程度に思っていてください。

 

国学の歴史

(国学の先駆者 契沖 出典:Wikipedia

①国学の先駆け

国学はもともと日本人の民族精神の解明を意図したものではありませんでした。

 

国学の先駆者といわれる契沖(けいちゅう)は和歌の理想を追究していたのです。中世の和歌を批判し『万葉集』、『伊勢物語』など古代の和歌について研究をしました。特に『万葉代匠記』は著名です。契沖は国学を直接作ったわけではありませんが国学における研究手法を確立しました。

 

荷田春満は伏見稲荷の神官に生まれ神祇、歌学に精通していました。契沖の『万葉代匠記』に学び契沖と同じように研究手法を確立した功績があります。一般に荷田春満が日本人の民族精神を明らかにする国学の創始者といわれています。

 

国学の成立

(賀茂真淵 出典:Wikipedia

 

 

賀茂真淵は荷田春満に師事しました。賀茂真淵も同じく日本の古典研究を進めましたが、賀茂真淵の思想の中心には日本の古典研究によって純粋で日本固有の民族精神を探求することにありました。

 

賀茂真淵の頃から古代に立ち返る学問研究に移り変わっていき本格的な国学研究が始まります。賀茂真淵は『国意考』を著し儒教の影響を受けない日本独自の思想に立ち返るべきと主張しました。

 

一方で本居宣長は特に『古事記』の研究を進めます。

 

(本居宣長 出典:Wikipedia

 

 

『古事記』による「神ながらの道」、『源氏物語』による「もののあはれ」の情に日本人固有の精神が見られると考えました。本居宣長は自身の研究手法などにおいて国学の大成者とされ、宣長において国学は完成をみます。

 

特に『古事記伝』は有名で「漢心」(中国の儒教思想)を排した日本古来の精神である「真心」に戻るべきと主張しました。復古神道の端緒が宣長に見られます。

 

国学の変化

(平田篤胤 出典:Wikipedia

 

 

本居宣長の次は平田篤胤が国学で影響を持つようになります。

 

平田篤胤は『日本書紀』と『古事記』の研究を進めましたが、平田篤胤の思想には宗教的な要素が強く表れており日本独自の思想が優れているのであり、儒教を排した日本古来の道に帰るべきだと強く主張します。平田篤胤は復古神道の大成者といわれています。

 

復古神道は儒教や仏教に影響されない「惟神の道」の復活を説き神意のままに行う方法を説く神道です。

 

この考え方は天皇が政治を握るべきだと考える尊王思想を結びつき尊王攘夷運動、そして明治政府にまで影響を与えたといわれています。

 

 

国学の内容

 

 

 

国学は哲学や思想を含むもので難しくなりがちです。本当に簡単にいえば「外国に影響される前の日本人はどんな民族だったの?」を研究する学問です。

 

国学は儒教や仏教といった外国の思想が入る前の日本人に固有な民族精神を追求しました。そして、そのうち国学は民族精神の探求にとどまらず、江戸時代の社会不安を儒教道徳に求めるようになりました。

 

つまり、儒教や仏教といった余計な考え方のせいで日本の政治はおかしくなってしまった。

 

それならば儒教や仏教が入る以前の日本固有の神の思うままに政治をしていた昔の方が世の中はうまく回っていたと考えるようになったのです。これが復古神道と呼ばれるものです。

 

国学の影響

①尊王思想との結合

上記のように国学は「日本固有の神の思うままに政治をするべきだ」という復古神道にまで発展しました。

 

復古神道は尊王思想と非常に相性がいいのです。尊王思想『大日本史』の編纂事業から生まれた思想です。天皇家を尊ぶ思想で江戸時代後期には天皇を幕府よりも優位とみるようになりました。

 

「天皇は神の子孫で神の意志を伝える」→「神意のままに政治を行うべき」→「なら神意を伝える天皇が直接政治を執るべきだ」という具合に尊王思想と復古神道は互いに影響しあい、天皇親政を支える理論となっていったのです。

 

この理論は天皇親政を説いた明治政府にも受け継がれました。

 

攘夷派との結びつき

✔ 勅許失敗

1856年にアメリカの総領事であったハリスは日本に日米修好通商条約を結ぶことを要求します。

 

幕府は日米和親条約を結んだときに黒船の脅威を直に感じ、オランダ商館長が提出するオランダ風説書によって、欧米諸国が日本よりもはるかに力を持った国であること、アヘン戦争清がイギリスに大敗したことを知っていたので条約を結ばなければならないと考えていました。

 

 

その時の国政上の中心人物は堀田正睦です。当時の日本には排斥的な攘夷思想をもつ人が一定数おり、堀田は世論を味方につけるために天皇の勅許をうけてから条約を結ぼうと考えたのです。

 

しかし、当時の朝廷は外国嫌いが優位を占め堀田は勅許をもらうことに失敗します。

 

無勅許調印

堀田は将軍継嗣問題で敗れ幕府の実権は井伊直弼に移ります。

 

 

井伊直弼は朝廷の反対を受けながら勅許を受けずに日米修好通商条約に調印しました。これを無勅許調印といいます。

 

無勅許調印はもちろん社会的に大きな反発を生みました。特に尊王思想を持つ人々は天皇を軽視した行動とみなし、幕府に強い反感を抱きました。

 

そして攘夷派の志士も開港を許した幕府に強い反感を抱きます。これに追い打ちをかけるように幕府は尊王派、攘夷派の人間を処罰してしまいます。これが安政の大獄です。

 

 

安政の大獄でさらに尊王派、攘夷派の人たちはさらに反感を強めます。この後、一部の志士によって井伊直弼は暗殺されます。これが桜田門外の変です。

 

 

尊王思想はこの開港問題を境に攘夷思想とくっつくようになり尊王攘夷思想へ発展します。

 

③尊王攘夷運動の失敗

幕府はのちに公武合体運動を進め、幕府は朝廷との宥和策をとります。

 

 

これを幕府による朝廷の政治使用と捉えた尊攘派は反発しました。

 

外国嫌いな朝廷と尊攘派は、結び付くことに成功し朝廷に攘夷決行ムードをもたらすまでに至りました。尊攘派は主導権を握ったかのように思われました

 

しかし、八月十八日の政変で薩摩・会津の両藩が朝廷から尊攘派を追い出してしまいます。

 

 

それでも尊攘派は攘夷を図ります。当時は長州藩が攘夷運動の中心でした。その長州藩が下関で外国船に砲撃し戦争に発展しました。これが下関四国艦隊砲撃事件です。

 

長州藩はこの戦争で大敗し攘夷の不可能を悟ります。このようにして尊王攘夷運動は失敗に終わったのです。

 

尊王攘夷運動の生まれ変わり

しかし、明治政府が国政を握ってから尊王攘夷運動は生まれ変わります。

 

尊王は「天皇に忠実であること」、攘夷は「愛国の民であること」に変貌を遂げました。

 

こうした思想は明治国家の天皇制を支えるものとなり、結果的に終戦まで影響を与えることになりました。

 

まとめ

・契沖→荷田春満→賀茂真淵→本居宣長→平田篤胤。

・和歌の研究→「純粋な日本人とは」の研究→復古神道。

・復古神道は尊王思想と結合し幕末に非常に大きな影響を与えた。

・本当に簡単に言うと国学は「儒教、仏教が入る前の日本人ってどんな考え方してたの?」を追求する学問。