イデオロギーの違う中国国民党と中国共産党。

 

この2つの勢力が協力関係にあった時期がありました。

 

この協力関係を構築した出来事を国共合作と言います。

 

今回はこの『国共合作(こっきょうがっさく)』について簡単にわかりやすく解説をしていきます。

 

国共合作とは? 

 

 

国共合作とは、中国国民党中国共産党が力を合わせて共通の目的に対処していくことになった出来事です。

 

歴史上、2回ありますのでそれぞれ「第一次国共合作(1924年~1927年)」「第二次国共合作(1937年~1945年)」と呼ばれています。そもそもこの二つの政党は相容れない関係にありました。

 

中国国民党とは孫文1919年に作った政党で共和制国家を目指していました。

 

辛亥革命で清朝は滅び皇帝はいなくなりましたが、各地で軍事力を持った人物が軍閥として勢力を持ち、中国は統一国家とは呼べない状況にありました。孫文の死後、蒋介石が国民党を率います。

 

一方、中国共産党は社会主義国家の建設を目指していました。

 

設立時のメンバーでのちに指導者となったのが毛沢東です。

 

すでに世界初の社会主義国家であるソビエト連邦が成立していて、中国でも同じような国家を建設しようとしていました。そのためには武力革命も辞さない構えでした。

 

この二つの政党は全く考え方が異なっていましたが、共通の敵を持ったときには力を合わせて対抗しようとします。そうして成立したのが国共合作でした。

 

第一次国共合作についてわかりやすく解説!

①北京政府

1911年の辛亥革命後、南京で中華民国が建国されます。

 

 

臨時大総統として孫文が就任しますが、当時まだ清朝が残っていたため、国際的には承認されていませんでした。

 

しかし、死に体の清朝では何もできないので、清朝内部の有力者で軍事権を握っていた袁世凱に孫文が大総統職を譲る形で中華民国北京政府が成立します。

 

 

(袁 世凱 出典:Wikipedia)

 

 

1916年に袁世凱が亡くなると彼の軍閥は様々な派閥に分裂し、北京政府の主導権を握ろうと争い始めます。

 

以後1928年まで数年ごとに政権が交代し中国政府は非常に不安定な状態になっていました。

 

②孫文と第一次国共合作の成立 

(孫文 出典:Wikipedia)

 

 

孫文は中国革命の父と呼ばれる人物です。

 

民族(清朝を倒し民族を独立させる)民権(共和制国家の設立)民生(大土地所有を制限し地権を平均化)三民主義をとなえました。

 

当初目指していたのはブルジョア的な民主国家でしたが、北京政府の打倒という点では利害が一致する中国共産党との連携を模索します。

 

反軍閥・反帝国主義という点では考えが一位していたからです。

 

そうして1924年に国民党の根拠地である華南の広州で開かれた第一回全国代表大会で連ソ・容共・扶助農工という新しい考え方を発表し、中国共産党との連携が決まりました。

 

これが第一次国共合作の成立です。

 

中国共産党員の一人一人が個人として中国国民党に入党するという形で実施されました。

 

しかし、翌年孫文は革命未だ成らずという有名な遺言を残して死去します。

 

③北伐と上海クーデター 

孫文の死後、中国国民党の権力を握ったのは蒋介石でした。

 

 

(蒋介石 出典:Wikipedia)

 

 

彼は孫文の遺志でもあった北京政府の打倒である北伐を実施します。1926年のことでした。

 

 

蒋介石の国民革命軍は各地で民衆の支持を得、翌年には武漢を占領。そして武漢に国民政府を樹立しました。

 

武漢の国民政府では共産党員も工作により政府の要職に就きました。

 

やがて国民革命軍は南京を占領しますが、このとき領事館や教会を襲撃し外国人が殺されるという事件が起きます。

 

南京を占領した軍には共産党系の軍隊もいたため、蒋介石はこの事件を共産党員によるものだと考えました。

 

次に国民革命軍が向かうのは上海です。上海には租界といって外国人が多数住んでいる地域がありました。共産党員はすでに上海で武装暴動を起こしていました。

 

上海の欧米の資本家は蒋介石に共産党の排除を求め、蒋介石もまた国民政府内で自分の影響力を確保するために、共産党の粛清を決意します。

 

上海における共産党を解散させ、各地で共産党員を逮捕・処刑しました。(上海クーデター)

 

上海クーデターにより第一次国共合作が崩壊し、蒋介石は南京に共産党を排除した新たな国民政府を作りました。

 

共産党を容認する武漢の国民政府と合わせて二つの国民政府が存在することになります。

 

このあと、蒋介石が軍事的に成功したこと、武漢の国民政府も共産党が国民党の仲間割れを画策していたことを知り、武漢政府が南京政府に合流する形で国民政府は一つになりました。

 

また、1928年には蒋介石は北京を占領。北伐を完成させます。 

 

第二次国共合作についてわかりやすく解説!

(軟禁中の蒋介石と関係者 出典:Wikipedia)

①西安事件 

蒋介石はその後も共産党に攻撃をしかけ共産党を壊滅寸前まで追い込みます。

 

一方、満州を勢力下においた日本との関係も悪化しつつありました。

 

そんなとき、蒋介石が張学良に西安で拉致され監禁されるという事件が起きます。西安事件です。

 

 

(張学良と蒋介石 出典:Wikipedia)

 

 

数日後、蒋介石は解放されますが、張学良との間で共産党と対決するのではなく、協力して抗日するという約束がなされました。

 

共産党もこの事件を契機に勢力を復活させるべく国民党との連携をはかります。

 

しかし、国民党側の共産党への不信感が強かったこともありなかなか交渉はまとまりませんでした。

 

そのような中、日中両軍の軍事衝突である盧溝橋事件が発生します。

 

 

一旦は収まるものの、事件は上海へ飛び火。第二次上海事変が起こるに至り、蒋介石は日本と軍事的に対抗するため、共産勢力と和解します。ソ連と不可侵条約を結び共産党を合法化したのです。

 

 

(祝杯をあげる蒋介石と毛沢東 出典:Wikipedia)

 

 

こうして第二次国共合作が成立しました。

 

今回は共産党軍を八路軍として国民政府軍に編入される形で行われました。

 

②日中戦争の終結と国共内戦

日中戦争では主に国民党軍が前線で戦いました。

 

 

共産党の八路軍はゲリラ戦や後方でのかく乱が主な任務でした。

 

最終的に日中戦争には勝利できたものの、国民党軍は正面から日本軍と戦ったために弱体化してしまいました。

 

一方、共産党はこの間勢力の回復に努め、農村地帯を中心に民衆の支持も得るようになってきました。敗退した日本軍から武器を鹵獲したこともあり、急速に力をつけてきたのです。

 

また、日中戦争の終結は国共合作の終わりも意味していました。

 

当初はアメリカが調停に乗り出しましたが、国民党軍と共産党軍の間で内戦が勃発してしまいます。

 

国民党はアメリカからの支援が打ち切られてしまっていました。他方共産党軍はソ連から援助を得ています。

 

共産党軍は連戦連勝を重ね、蒋介石は台湾に逃げるしかありませんでした。

 

そして1949年、毛沢東中華人民共和国を建国します。

 

 

(毛沢東 出典:Wikipedia

 

 

その後、台湾の国民党政権を攻撃しようとしたとき、朝鮮戦争が起こったため、台湾への攻撃は実施されませんでした。

 

 

こうして、大陸の中華人民共和国と台湾の中華民国が存在することになったのです。

 

まとめ

 国共合作とは中国国民党と中国共産党の協力関係のこと。

 両者は考え方が相容れないところもあったが必要に応じて提携した。

 第一次国共合作は北京政府に対抗するため、第二次国共合作は日本に対抗するため結成された。

 いずれも形は違うが共産党が国民党の傘下に入る形で行われている。

 第一次国共合作は上海クーデター、第二次国共合作は日中戦争の終結で終了した。

 第二次国共合作期間中に共産党は力をつけ、戦後の国共内戦で勝利することができた。

 敗れた蒋介石の国民党は台湾へ逃げた。




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