【国会開設の勅諭とは】わかりやすく解説!!きっかけや内容・開設までの流れなど

 

通常国会は毎年1月から6月ぐらいまでやっています。

 

今の時代議員はちゃんと国会に打ち込んでいるのかは謎ですが…国会は法律を作ったり、条約にOKを出したりするなど重要な仕事をしています。

 

今回はそんな国会が日本でも作られるぞ!となることになった国会開設の勅諭(ちょくゆ)についてわかりやすく説明していきます。

 

国会開設の勅諭とは?

(国会開設の勅諭 出典:Wikipedia

 

 

国会開設の勅諭とは、自由民権運動がピークに達していた1881年(明治14年)に明治天皇が国会を作ることや天皇中心の欽定憲法を制定するなどを決めた勅諭です。

 

この頃政府の問題が多く国民は国民中心で政治をすることができる国会の開設を求めていました。

 

 

国会開設の勅諭が出される前の状況

①自由民権運動

この頃の政治は全て太政官と呼ばれるところが全てやっていました。

 

 

もちろん三権分立もやっていません。なのでごく一般の国民が政治に参加することは不可能だったのです。

 

そんな時『こんな状態はおかしい!』とある男が立ち上がります。その人がのちに自由党を立ち上げる板垣退助でした。

 

板垣退助は征韓論の問題で政府と対立して政府をやめて故郷の高知県に帰っていました。

 

高知県の人々は『土佐(高知県)の人々も明治維新を頑張ったのになんで政府は薩摩と長州が中心なんだ!』と思い始めます。

 

そこで板垣退助は同じ高知県出身の後藤象二郎と一緒に1874年に民撰議員設立の建白書を明治政府に提出します。

 

この民撰議員設立の建白書は『国民の選んだ人々が政治をやっていかなければいけない!』という意味でこれから国民はこれを達成するために各地で運動を起こすようになります。

 

これが自由民権運動です。

 

 

②政府の汚職問題と明治十四年の政変

 

明治維新からしばらく経ってくると政府の官僚たちは汚職をしていきます。

 

もちろん汚職は政府のプライドを傷つけるとんでもなく悪いことです。

 

しかし、この時の北海道を担当していた北海道開拓長官だった黒田清隆は同じ薩摩出身の最近朝ドラでも演じられた五代友厚に国が作った建物や設備を破格の値段で売ろうとしました。

 

 

(黒田清隆 出典:Wikipedia

 

 

国民はこのことを聞き大激怒。黒田清隆は政府から左遷されこの払い下げは中止となります。

 

この事件のことを開拓使官有物払下げ事件といいます。

 

 

そして政府はこの事件を受けて開拓使を廃止して、新たに札幌県、函館県、根室県を置きました。

(※黒田清隆はその後頑張って第2代内閣総理大臣になります)

 

しかし、この事件の被害を食らったのは国民だけではありません。

 

この時大蔵卿だった大隈重信は黒田清隆を潰したという噂が広まり大隈重信は政府から追放されてしまいます。これを明治十四年の政変といいます。

 

 

その後、大隈重信は自由民権運動に参加することになります。

 

国会開設の勅諭の発表

 

開拓使官有物払い下げ事件などの政府の汚職問題が問題となり、国民は『政府はどうなっているんだ!もう我慢できない!』と思うようになり自由民権運動はさらに拍車がかかります。

 

政府はこれ以上国民の意見を無視することはできないとついに国会を開設することを決定します。

 

政府の中でも有力な人であった伊藤博文は明治天皇に10年以内に国会を開設するように頼み込み、明治天皇はそれにOKを出しました。

 

 

(伊藤博文 出典:Wikipedia

 

 

元々国会を開設することは政府の中でももうやるべきという声が上がっていたのですが、伊藤博文の10年以内にドイツ式の国会を開設するゆっくりやっていこう派とは別に、明治十四年の政変によって追放された大隈重信はイギリス式の国会を直ちに開設するべきというせっかちな意見でした。

 

しかし、大隈重信が明治十四年の政変によって政府から追放されたことによって伊藤博文の意見が採用されることになりました。

 

 

こうして明治天皇は国民に対して10年以内に国会を開設することを発表しました。

 

政府は10年以内に国会をスムーズに開設できるような制度を作っていきます。

 

国会ができるまでの10年間

①政党の立ち上げ

国会が開設することはすぐに国民に伝わり、国民は国会に参加しやすいように近代的な政党をどんどん作っていきます。

 

代表的な党は自由民権運動を起こした板垣退助は土佐で作った自由党と、追放されて故郷に戻った大隈重信が作った立憲改進党です。

 

また政府も政治の実権を離さないようにするため立憲帝政党を作ります。

 

②私擬憲法の作成

明治天皇は国会開設と同じ時期に憲法の制定することを発表しました。

 

国民は自由で平等な憲法案を作っていきます。これを私擬憲法といいます。

 

代表的な憲法は交詢社の『私擬憲法案』や植木枝盛の『東洋日本国国憲按』や『五日市憲法』が有名です。

 

特に五日市憲法は・・・

  •  日本国民は、各自の自由を達成することができる。他人が妨害してはならない。かつ、国はこれを保護しなければならない。
  •  すべての日本国民は、法律を守ってるかぎり、事前に検閲(けんえつ)を受けることなく、自由に思想・意見・論説・絵画を著作し出版でき、公衆に対して討論・演説することができる。

と非常に自由で平等的な憲法でした。

 

しかし、この案は採用されず、結局日本の憲法は伊藤博文が中心に作ったドイツの憲法をモデルにした天皇中心の憲法である大日本帝国憲法となりました。

 

終戦後に作られた日本国憲法はこの私擬憲法が一部モデルになったと言われています。

 

 

日本の国会の始まり

 

 

明治政府は1890年に帝国議会を成立させ、第一回衆議院総選挙を行います。

 

しかし、この総選挙は直接国税15円を納めている25歳以上の男子しか投票できず、投票できる権利があったのは日本の全人口のわずが1%でした。

 

 

厳しい条件ではありましたが、一般の国民が政治に参加するのはこれが最初でした。

 

さらに同時期に大日本帝国憲法も制定され、日本は着実に近代国家として成長しました。

 

 

まとめ

 国会開設の勅諭とは、1881年(明治14年)に明治天皇が国会を作ることや天皇中心の欽定憲法を制定するなどを決めた勅諭のこと。

 国民は一部の人々しか政治をしていないことに不満を持って板垣退助を中心に自由民権運動を起こした。

 黒田清隆は開拓使官有物払い下げ事件を起こして国民の不満はピークに達した

 政府は国民の意見を無視できず、10年以内に国会を開設することを約束した

 国民は国会開設の知らせを聞いて党の設立や憲法を作った。

 最初の国会は直接国税を15円支払った25歳以上の男子しか投票できなかった。