【天皇機関説事件とは】簡単にわかりやすく解説!!事件までの流れ・その後について

 

民衆が政治をする大正デモクラシーの時代になると、天皇は内閣と同じ機関とする天皇機関説が主流となっていました。

 

しかし、昭和時代に入ると軍の中では天皇を憲法よりも上な主権とする人も現れます。

 

今回は天皇機関説について、そしてそれが日本で禁止されるきっかけとなった1935年(昭和10年)の『天皇機関説事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

天皇機関説とは?

(美濃部達吉著『憲法撮要』 天皇機関説事件後に発禁 出典:Wikipedia

 

 

明治時代に入ってこれまで地味だった天皇は大日本帝国憲法によって日本の主権となりました。

 

しかし、日本以外のいろんな憲法を研究している人からは天皇だけに権力を与えるのではなく、天皇を憲法で決められた一機関として扱うべきという意見も出てきます。

 

これが天皇機関説と呼びます。

 

その憲法学者は天皇は憲法を守ってさらに国会や内閣の意見を取り入れて政治を行う最高機関としました。

 

この考え方を提唱したのは美濃部達吉という憲法学者です。この人の子孫は東京都知事にもなってます。

 

天皇機関説と天皇主権説

 

 

天皇機関説の真反対の考え方で天皇主権説というものがあります。

 

この天皇主権説はわかりやすく言うと『天皇は憲法以上の絶対的な権力を持っている』ということです。

 

天皇主権説では内閣や国会はあくまでも意見をまとめる機関で、もしその意見を天皇が反対したらその意見はあっさりボツとなりました。

 

天皇は戦前ではこの世にいる神という意味である『現人神』として扱われていたのでこの意見が主流となっていました。

 

それに比べて天皇機関説はあくまでも天皇の権力は憲法によって決められているものとなっていました。

 

天皇機関説が取り入れられた日本

 

 

日本は天皇の名の下に明治維新を成し遂げたため、大日本帝国憲法が作られた時には天皇主権説の方が採用されていました。

 

しかし、明治維新を成し遂げた偉人たちがどんどんこの世を去っていくと日本は護憲活動などで大正デモクラシーとなっていきます。

 

 

大正デモクラシーとは、一部の人が政治をしていくのではなく国民が選挙で投票した人が議会によって政治を動かしていった時代のことです。

 

この時代になると天皇主権説ではなく大正デモクラシーの時代の考え方にあっている天皇機関説が採用されていきます。

 

さらに昭和天皇は天皇機関説に大賛成だったため、天皇機関説に反対している天皇主権説の人々は天皇の考え方にも反対していることになってしまい、天皇主権説の立場がどんどんなくなってしまいました。

 

天皇機関説の衰退

①軍国主義の台頭

昭和時代に入ると日本国民は政党政治に嫌気がさし、さらに議会の圧力を受けない軍の人々がどんどん権力が強くなっていました

 

そうなると日本は軍によって政治を行う軍国主義となってきます。

 

さらに一時期は崩壊しかけた天皇主権説がまた主流となっていきます。

 

さらに五・一五事件によって犬養毅首相が暗殺されると政党主義は崩壊しました。

 

 

そして日本はついに軍国主義の道を突っ走っていくことになっていくのです。

 

②天皇機関説事件

日本が軍国主義に突っ走っていた1935年(昭和10年)についに天皇機関説が天皇に失礼(不敬)として国会で問題となります。

 

この時の内閣総理大臣は海軍出身の岡田啓介という人です。

 

陸軍は天皇主権説を日本の常識にしたかったため、なんとしてでもここで天皇機関説を潰しておく必要がありました。

 

特に天皇機関説の発案者である美濃部達吉は陸軍からの徹底的に批判されました。

 

 

(天皇機関説の発案者『美濃部達吉』 出典:Wikipedia

 

 

この時には内閣は軍の操り人形となっていましたので、陸軍の意見を無視することはできませんでした。

 

そのため、昭和天皇が支持していた天皇機関説は天皇を馬鹿にしているとして正式に不敬罪となってしまいました。

 

その上美濃部達吉も内務省から不敬罪として起訴され、貴族院議員をやめなければいけなくなりました。

 

しかし、陸軍の中には天皇機関説とはどのような考え方なのかよくわかっていなかった人も多く、『畏れ多くも天皇陛下を機関銃や機関車と同一視するとは何事か!』と激怒する人もいました。

 

③天皇機関説が日本の敵に!国体明徴声明

 

 

陸軍は天皇機関説を主張している人にとどめをさすために国体明徴声明を発表しました。

 

国体とは日本の政治体制のことで、この声明は日本はどのような政治体制でやっていくということを公式に発表するというものでした。

 

この声明は・・・

『恭しく惟みるに、我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭に『國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ』と宣ひ、憲法第一條には『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり。近時憲法學説を繞り國體の本義に關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體の明徴に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。』

(出典:Wikipedia

と発表しました。

 

わかりやすく現代訳すると「天皇自身が日本は私や私の子孫が治めますと言っていて、さらに憲法には『天皇は日本を統治します』と書いてあるんだから天皇を機関としている天皇機関説はおかしいよね。だからこれからは日本は天皇を機関とせずに主権としてみますよ」と宣言しました。

 

さらに陸軍はこれだけではなく内閣に声明の第二弾も発表するように圧力をかけてそこでついに天皇機関説を教えることは禁止となりました。

 

④戦後の天皇機関説

 

 

国体明徴声明から10年経った1945年。日本はポツダム宣言を受諾して降伏しました。

 

 

そして1947年大日本帝国憲法に代わる新たな憲法日本国憲法が公布されました。

 

 

この日本国憲法では主権は国民に移り、天皇は『日本国民の象徴』となりました。

 

こうして天皇機関説は日本の天皇に対する考え方としての使命は終わりを迎えました。

 

まとめ

 天皇機関説は天皇を内閣や国会みたいな機関の一つとして扱う考え方。

 天皇機関説は大正デモクラシーの時に受け入れられた。

 昭和時代になると天皇機関説は不敬となり国体明徴声明で天皇機関説を教えることが禁止となった。

 天皇機関説は日本国憲法の公布とともに考え方としての使命を終えた。