憲政の常道、漢字の意味から考えると「憲法政治であたりまえのこと」という意味になります。
当たり前って、とてもあいまいな表現ですよね。
そこで今回は、『憲法の常道(けんせいのじょうどう)』がどう当たり前なのか、背景・経過・その後について簡単にわかりやすく解説していきます。
憲政の常道とは?
(加藤高明 出典:Wikipedia)
憲政の常道とは、1924年(大正13年)の加藤孝明内閣から1932年(昭和7年)の犬養毅内閣までの期間に行われた政治をさす言葉です。
この時期の政治は、衆議院で多数を占める政党が内閣を担当することになっていました。
そして、もし第一党が総辞職をした場合、第二党が代わって内閣を作るということになっていました。
憲政の常道がはじまるまでの日本の内閣
(大正デモクラシーの立役者 吉野作造 出典:Wikipedia)
①憲法は国民のために!『大正デモクラシー』
大正時代になると、自由主義や民主主義を求める世の中の空気(風潮)が生まれました。
このふわっとした空気のことを大正デモクラシーと呼びます。
大正デモクラシーを代表する人物の一人が吉野作造です。
彼は天皇主権や大日本帝国憲法は否定せず、国民のために憲法を使おうという民本主義を唱えました。
吉野の主張によりふわっとした大正デモクラシーが国民のためという方向性を持ちました。
②初の本格的な政党内閣の誕生!『原敬内閣』
第一次護憲運動のあと、3つの内閣ができましたがいずれも本格的な政党内閣とは言えませんでした。
特に寺内正毅は頭の形が福の神のビリケンに似ていたことから「ビリケン(非立憲)首相」とあだ名をつけられてしまいます。
寺内内閣が米騒動で倒れた後で総理大臣に指名されたのが衆議院議員の原敬でした。
原の内閣は陸海軍大臣と外務大臣以外は立憲政友会から任命する本格的な政党内閣でした。
原の暗殺後、政友会の高橋是清が総理大臣になりますが長続きせず総辞職して政党内閣は途絶えました。
③時代遅れの貴族院・超然内閣『清浦圭吾内閣』
大日本帝国憲法ができたころ、政府は政党の言うことに左右されてはならないという考え方がありました。
超然主義です。超然主義を掲げる内閣を超然内閣といいます。
大正時代にはあまりみない「古臭い」内閣でした。大臣の多くが貴族院出身だったのも政党の批判を浴びました。
憲政の常道の始まりから終わりまで
(清浦内閣発足時の閣僚 出典:Wikipedia)
①第二次護憲運動(1):護憲三派の清浦内閣批判
貴族院メンバーで固められた清浦内閣に対して、衆議院の3つの政党(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)は、「原内閣から政党員が内閣に入ることが多かったのに、今回は貴族院ばっかりだ。政党内閣を実現しろ!」と猛抗議をはじめました。
この抗議をした3つの政党を護憲三派と呼びます。
②第二次護憲運動(2):護憲三派の勝利と清浦内閣総辞職
清浦は政友会のうち、総裁の高橋是清に不満を持って独立した政友本党を味方につけたうえで選挙を行いました。
護憲三派は「普通選挙をおこなう。貴族院を改革する。政治の無駄をなくする」を掲げて選挙に臨みました。
1924年に行われた総選挙の結果は護憲三派の圧勝に終わりました。敗北した清浦は内閣総辞職を選択します。
③憲法の常道がはじまる!『加藤高明内閣』
護憲三派のうち最も多くの議席を獲得したのが加藤高明の憲政会です。
そのため、加藤が内閣を作りました。
これ以後、衆議院で一番多くの議席を持った第一党が内閣を作るという「憲政の常道」がはじまりました。
④憲政の常道の基本ルール
この三つが県営の常道の基本ルールでした。
基本ルール
①内閣総理大臣は第一党から出す
②内閣が総辞職した場合、次の総理大臣は第二党から出す
③内閣が総辞職ではなく、暗殺や病死などだった場合は前の内閣と同じ政党が内閣をつくる
実際にどうだったか見てみましょう。
⑤憲政の常道の実例を見てみよう!
・清浦圭吾内閣(貴族院):第二次護憲運動の選挙に敗北して総辞職→ルール①が適用され、憲政会の加藤高明が総理大臣になる
↓
・加藤高明内閣(憲政会):加藤の病死により内閣が終わる→ルール③を適用し、憲政会の若槻礼次郎が総理大臣になる
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・第一次若槻礼次郎内閣(憲政会):金融恐慌の責任を取って総辞職→ルール②が適用され、立憲政友会の田中義一が総理大臣になる
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・田中義一内閣(立憲政友会):張作霖爆殺事件で天皇から叱られて総辞職→ルール②が適用され、立憲民政党(憲政会が改名)の浜口雄幸が総理大臣になる
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・浜口雄幸内閣(立憲民政党):狙撃され重傷を負って内閣継続が不可能→ルール③が適用され、立憲民政党の若槻礼次郎が総理大臣になる
↓
・若槻礼次郎内閣(立憲民政党):満州事変の責任を取って総辞職→ルール②が適用され、立憲政友会の犬養毅が総理大臣になる
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・犬養毅内閣(立憲政友):五・一五事件で暗殺される→次の総理大臣は政党以外から選ばれ、憲政の常道が終わる
⑥憲政の常道 終わり『五・一五事件』
1932年(昭和7年)5月15日に五・一五事件が発生します。
この事件は、総理大臣(犬養毅)が殺されたというだけではありませんでした。
第二次護憲運動から8年間続いた政党内閣が終わり、憲政の常道が途絶えた瞬間でもありました。
これ以後、太平洋戦争の敗北まで日本に政党内閣が復活することはありませんでした。
憲政の常道が途絶えた後の日本
①国体明徴声明の発表
1935年、岡田内閣は臣民は日本国の尊厳を守り、天皇に絶対服従しなければならないという国体明徴声明を発表します。
衆議院議員が国民に選挙で選ばれても、天皇や政府には絶対に従うということを意味します。
②国家総動員法の制定
(1938年 国家総動員法成立を報じる新聞 出典:図説 日本史)
1938年、近衛内閣は政府は議会の承認なしに勅令で必要な人的物的資源を動員できるとする国家総動員法を制定しました。
簡単に言うと、政府は議会を無視して好きなように人や物・金を動かせるということです。
これで、政党や議会の意味はほとんどなくなりました。
常道どころか、憲政そのものがなくなったといってもいいでしょう。
まとめ
✔ 憲政の常道とは、議会の第一党が内閣を作るという「憲法政治であたりまえのこと」。
✔ 憲政の常道は加藤高明内閣から犬養毅内閣までの8年間行われた。
✔ 憲政の常道は第二次護憲運動から始まった。
✔ 護憲三派のうち、第一党の憲政の加藤高明が内閣を作った。
✔ 憲政の常道の基本ルールは、総辞職なら政権交代、病死・暗殺なら内閣継続。
✔ 松方は日本銀行を作り紙幣の発行権を与えた。
✔ 五・一五事件を最後に、政党内閣がおわり、憲政の常道も終了した。