【改新の詔とは】簡単にわかりやすく解説!!4か条の内容・大宝律令との違いなど

 

朝廷は、乙巳の変から始まる大化の改新を行う上での基本方針を改新の詔として発表しました。

 

今回は、朝廷がどのようにして律令国家を目指していったのか、『改新の詔(かいしんのみことのり)』の各条文を簡単にわかりやすく解説していきます。

 

改新の詔とは?

 

飛鳥時代中期、天皇を頂点とする中央集権国家を作るため、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏を乙巳の変で滅ぼすと、大化の改新を行っていきました。

 

その大化の改新の方針を4か条で掲げたものが「改新の詔」です。

 

それぞれの条文で1条は公地公民制、2条は国郡制、3条は班田制、4条は税制についての記載がされています。

 

これら条文は、律令国家となる1歩であり、のちに律令国家完成となる大宝律令につながるものとなっていくのです。

 

改新の詔がだされた背景

(乙巳の変 出典:Wikipedia)

①乙巳の変(いっしのへん)

政治のカリスマであった聖徳太子が亡くなったあと、豪族である蘇我氏親子(父:蘇我蝦夷、子:蘇我入鹿)に権力が集中し、専制的な政治を行うようになっていました。

 

蘇我氏の政治をよく思っていなかった中大兄皇子と中臣鎌足は、645年にクーデターを起こし、乙巳の変で子蘇我入鹿を暗殺。父蘇我蝦夷を自殺に追い込むことに成功しました。

 

これにより蘇我氏は滅び、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を頂点とする中央集権体制を目指していました。

 

 

②大化の改新

そして、乙巳の変後に中大兄皇子と中臣鎌足らが行った中央集権国家へのそれぞれの政策をまとめて大化の改新といいます。

 

乙巳の変の後、孝徳天皇が即位し新政権が樹立しました。

 

さらに都を難波長柄豊碕宮に移し、どんどんと律令国家政策を進めていきました。

 

そしてついに、大化の改新の基本方針として646年に「改新の詔(かいしんのみことのり)」が出されたのです。

 

 

改新の詔「4か条」の内容

(日本書紀 出典:Wikipedia

 

 

改新の詔は、『日本書紀』に記載されており、4か条から構成されています。

 

以下は、『日本書紀』より主文を抜粋したものとなります。それぞれの条文についてみていきましょう。

 

1.罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。

2.初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河。

3.初造戸籍計帳班田収授之法。

4.罷旧賦役而行田之調。

引用:Wikipedia

 

1条:公地公民制

1条では、天皇が設置していた屯倉(みやけ)(天皇の直轄地)や子代(しだい)(皇室の私有民)を廃止するとともに、田荘(たどころ)(豪族の私有地)と部曲(かきべ)(豪族の私有地)を廃止し、天皇の直接支配するものとすることが記載されています。

 

つまり、今まで天皇や豪族が、土地や民を私有していましたが、今後は「すべての土地と民は天皇が所有する」とされたのです。

 

しかし、最近の新説では、豪族による田荘や部曲の私有は禁止されていたにもかかわらず、朝廷から私有を許可されていた豪族もいたという事例があることから、公地公民制は確立されておらず、目標掲げたに過ぎなかったのではないかとの意見もあります。

 

 

2条:国郡制

第2条では、都の設置される畿内や国・郡には、国司・郡司・関所が設置されることと、地方には斥候(辺境警備兵)・防人(西方警備兵)などの警備兵や駅馬・伝馬などの連絡手段を設置することが規定されました。

 

 

地方政治についてはその土地の豪族に任せていましたが、これからは地方行政についても中央から国司や郡司を派遣し、天皇が管理、統治することとなりました。

 

3条:班田制

初めての戸籍と計帳が作成されることとなりました。

 

この戸籍により口分田を支給し、税を課税するという班田収授法のしくみをとっていました。

 

6歳で支給される口分田は、その人が亡くなってしまうと、朝廷に口分田を返さなくてはいけませんでした。

 

初めて全国的な戸籍が完成したのは、改新の詔から約25年後の670年の庚午年籍(ごうごねんじゃく)であるとされています。

 

このことから、改新の詔により戸籍作成の制度はできたものの、実際に戸籍が作られ始めたのは庚午年籍からであり、改新の詔が出された当時は、台帳に記載される程度のものであったのではないかと言われています。

 

4条:税制

今までの労役による税制を廃止し、田の面積に応じて租税を課税することが規定されました。

 

改新の詔のその後

①郡評論争

改新の詔の内容は『日本書紀』に記述がされています。

 

しかし、藤原京跡で見つかった木簡と日本書紀の記載の漢字が異なっていることから、「日本書紀は、改新の詔について正しいことを書いていないのではないか?脚色しているのではないか?」と言われています。

 

具体的には、第2条の「郡司」について、大宝律令前には「郡」ではなく、「評」の文字が使われるのが一般的でした。

 

もちろん、木簡の文字は「評」が使用されていました。

 

なので、日本書紀の改新の詔の記述たちからも「評司」とされていなければなりません。

 

しかし、日本書紀で「郡司」と記載されているのは、大宝律令後に改新の詔の内容を書き換えたのではないかと言われており、改新の詔自体の真偽も議論されることとなりました。

 

これを郡評論争といいます。

 

②大宝律令

改新の詔にて中国の律令国家を真似た中央集権国家への基本方針が発表されましたが、実際に日本の律令国家が完成したのは大宝律令の制定の時だといわれています。

 

 

大宝律令701年の文武天皇の時代に、藤原不比等と刑部親王が唐の律令を真似てまとめたもので、日本で初めて、律(刑法)令(行政法・民法)が揃った法令でした。

 

 

大宝律令では、中央政治のしくみとして「二官八省五衛府」を制定し、天皇を頂点とした政治組織体制が完成しました。

 

また、地方政治のしくみとしては「畿内と七道」に区分し、さらに「郡」や「里」に細かくし「国司」「郡司」「里長」を任命しました。

 

そして、地方行政において中央から任命される国司に大きな権限を与えて、朝廷による地方統治を行いました。

 

また、大宝律令では税制についても規定されており、「租庸調」と呼ばれる税制が課税されることになりました。

 

6年ごとに作成される戸籍をもとに口分田を支給し、その口分田に対し、税金を課税していきました。

 

祖は収穫の3%を稲で納めること、庸は京での労役の代わりに布を納めること、調は繊維製品や地域の特産品を納めることが規定されました。

 

その他にも、雑徭(ぞうよう)や兵役といった負担もありました。

 

まとめ

 改新の詔は、大化の改新の基本方針を示したものだった。

 改新の詔1条で、公地公民制により、天皇や豪族の土地や民の私有制が廃止され、すべて天皇の所有とされた。

 改新の詔2条で、地方を国や郡に分け、それぞれ治める役人を設置し、地方行政についても天皇が統治をする中央集権化が行われた。

 改新の詔3条で、初めて戸籍と台帳が作られ、それをもとに口分田が与えられる班田収授法のしくみが作られた。

 改新の詔4条で、労役による税制から、田や戸に対して課税を行う、納税が規定された。

 改新の詔で目指していた律令国家は、宝律令制定で完成した。