古くから大陸への対外交渉に重要な役割を果たしてきた九州に、701年の大宝律令によって置かれた政府機関「大宰府」。

 

年号の「令和」の引用元ともなった、「万葉集」の「梅花の歌」三十二首の序文が読まれた地であると話題になりましたね。

 

今回はそんな『大宰府』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

大宰府とは?

(太宰府天満宮 出典:Wikipedia

 

 

大宰府とは、九州の筑前国筑紫郡(現在の福岡県太宰府市)におかれた政府機関のことです。

 

701年の大宝律令によって整備されました。

 

律令制において外交や防衛などの国家機能を持ち、九州および壱岐・対馬の統括機関として置かれました。

 

古くから筑紫の地は日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史的に重要な役割を担っていました。

 

大宰府が設けられた理由とその背景

➀大宰府の起源

大和朝廷時代に置かれた「那津官家(なのつみやけ)」(現在の博多湾岸)が起源だと言われています。

 

527年に「筑紫君磐井の乱」が起こり平定後、宣化天皇は北部九州の支配確立と、同時にその対処が急速に高まっていた流動化する朝鮮半島政策を担う拠点として「那津官家(なのつみやけ)」という出先機関を置いたとされています。

 

日本書紀には宣化天皇元年(536年)に、非常に備え那津に各地から集めた食糧を保管する官家を造らせたという内容の記述があります。

 

「官家(みやけ)」とは大和政権による政治・経済・軍事上の拠点のことで、直轄地を意味するものとされています。

 

②大宰府の移設

朝鮮半島で660年に百済が唐・新羅によって滅ぼされ、3年後の663年に白村江の戦いで百済・倭国(日本)連合軍が唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされます。

 

 

大和朝廷は唐・新羅軍が倭国(日本)に攻め入ってくるのではと恐れ、朝鮮半島に近い「那津官家(なのつみやけ)」を最前司令部とします。

 

天智3年(664年)対馬・壱岐及び筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)烽(※とぶひ)を置き、筑紫には大堤を築いて水を貯えた水城を造ります。翌年には、百済の亡命貴族を遣わせて大野城の両城を築かせています。

 

これらの防衛施設に守られた、より内陸部に入った地に「大宰府」が移設されました。

 

【烽(とぶひ)とは?】

「のろし」をあげて外敵の襲来などの変事を都に急報するための設備。664年に対馬・壱岐・筑紫国などに初めて設置したとされています。

こうして現在の大宰府政庁跡の地に移されたとされています。

 

8世紀になると大宰府は日本が律令国家へと体制を整えるに従い、官の組織が設備され、当初の対防衛的色彩の濃いものから、外国からの使節を迎え、あるいは日本から外国へと使節を送り出すという対外交渉の窓口として、九州全体を治める律令制最大の地方官衙(役所)へと変わっていきました。

 

律令制での大宰府

➀大宰府の役割

律令地方行政は中央政府の諸国直轄を原則としていましたが、古くから対外交渉に重要な役割を果たしてきた大宰府は、外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国と3島については掾(じょう)以下の人事や四度使(よどのつかい)の監査などの行政・司法を所管しました。

 

与えられた権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれていました。

 

軍事面としては、その管轄下に防人統括する防人司・主船司を置き、西辺国境の防備を担っていました。

 

外交面では、北九州が古来、中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である、鴻臚館(こうろかん)が那津の沿岸に置かれました。

 

②官人構成

四等官は長官の大宰帥(だざいのそち)大宰権帥(だざいのごんのそち)の下に、

 

弐(すけ):大弐(だいに)・少弐(しょうに)

監(じょう):大監(だいげん)・少監(しょうげん)

典(さかん):大典(だいてん)・少典(しょうてん)

 

が置かれその他に、

大判事・少判事・大令史・少令史・大工・少工・博士・陰陽師・医師・算師・防人正・防人佑・主船・主厨・史生・祭祀を司る主神

などの50人の官人が置かれていました。

 

主神は中央官庁の神祇官、大宰師以下が太政官に相当します。

 

その他、雑務に携わる者なども入れるとその数は1000人を超えたといわれています。

 

長官の大宰帥(だざいのそち)をはじめ、府官人の位階は諸国司より高く、経済的にもかなり優遇されていました。

 

長官は大納言・中納言の位の政府高官が兼ねていましたが、平安時代には親王が任命されて実際に赴任しないことが大半となり、次席である大宰権帥(だざいのごんのそち)が実際の政務を取り仕切りました。

 

③大宰府の造り

大宰府は3度の建て替えが行われており、創建時には堀立柱式であったことが明らかになっています。

 

律令制にともない礎石建ち瓦葺き建物となり、左右対称に建物を配置する朝堂院形式に建て直されました。

 

平城京や平安京と同じく、条坊制を布き、自然の山河や水城、大野城、基肄城に護られた防衛都市であり、風水思想に則り築かれた都市でもありました。

 

その後、天慶3年(941年)に藤原純友によって焼き討ちされ焼失(藤原純友の乱)した後に、3度目の大宰府が再建されました。

 

大宰府の衰退

➀大宰府の一時的な廃止

天平の時代は首都で失脚した貴族の左遷先となる事例が多く、菅原道真藤原伊周などが左遷されていました。

 

天平11年(739年)に大宰府に左遷された藤原広嗣は聖武天皇に遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぼう)の排除を求めて上奏文を送りますが、聖武天皇はこれを国家転覆を企んだ謀反とみなし、藤原広嗣を処刑します。(藤原広嗣の乱

 

その影響で天平14年(742年)~天平17年(745年)の間大宰府は廃止され、その間の大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに筑紫に設置された鎮西府が管轄していました。

 

②平安時代の大宰府

時代が下っていくと実権はさらに下級官人に移っていき、府官人の土着化あるいは土豪の府官人化が進みました。

 

天慶4年(941年)伊予の海賊・藤原純友に攻められ大宰府は焼け落ちますが、この時追捕使(ついぶし)として活躍した大蔵春実(おおくらのはるざね)も土着し、子孫は府官を世襲しました。

 

一方、焼失した大宰府はもう一度再建されました。

 

平安時代も後半になってくると日宋貿易の利を求め、権門社寺の荘園が北部九州に進出しますが、特に平氏は熱心で、平清盛そして、弟の頼盛と大宰大弐に就任し、貿易の権限を掌握しようとしました。

 

平氏滅亡後、鎌倉幕府の成立により、律令制下の「大宰府」はその機能を停止しました。

 

大宰府がいつ廃絶したかはっきりとした時期はわかりませんが、近年の発掘調査によると政庁域は12世紀の前半にはかなり荒廃していたのではないか、とのことです。

 

大宰府のその後

 

建物としての大宰府はなくなっても、権威としての「大宰府」は生き続け、鎌倉幕府の職務である鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)として九州に下ってきた武藤氏(後の少弐氏)は、朝廷の役職の大宰少弐にもつきました。

 

それによって、太宰府の現地最高責任者となり、官人たちを従えて政務を執りました。

 

太宰府を居城とし、後に武藤改め少弐を称するようになるのも、その権威故だったのでしょう。

 

少弐氏は豊後を本拠とする大友氏とならぶ有力武士として、九州政治史上大きな役割を果たします。

 

室町時代、少弐氏にかわって筑前を支配したのは、周防・長門を本拠とする大内氏でした。

 

応仁の乱の頃には少弐氏により一時的に筑前を奪われますが、乱の終結で大内政弘が京から帰国するとすぐ筑前を取り戻します。

 

その後、大内氏の滅亡によって筑前の支配は、豊後を本拠とする大友氏へと移りますが、日向耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗し、九州内は激しい戦乱状態におちいります。

 

太宰府はしばしば戦闘の舞台となり、太宰府の寺社も多く焼失することとなります。

 

戦国末期に九州制圧をめざした島津氏による、岩屋城攻めでの戦闘を最後に太宰府は静かな農村に姿を変え、江戸時代が過ぎてゆきます。

 

その後、菅原道真が祀られた太宰府天満宮とその門前町がまちの中心になり、全国からの参拝者を迎える都市的な空間が形づくられます。

 

そして幕末、京を追われた尊皇派の三条実美(さんじょうさねとみ)たち五卿は太宰府に移されます。王政復古で帰京するまでの約3年を太宰府天満宮で過ごしました。

 

この間、五卿のもとには、西郷隆盛・坂本龍馬など勤皇の志士たちが訪れて情報を交換し、太宰府は後に「明治維新の策源地」と呼ばれました。

 

「大宰府」はどの時代においても重要な役割を担っていたのですね。

 

大宰府と太宰府の違い

 

最後に「大」宰府と「太」宰府の違いについてお話します。

 

「大宰府」は飛鳥時代の「大宰」という役職名に由来しています。

「大宰」とは数ヵ国程度の地域を支配する地方行政長官のことです。

 

「太宰府」は住所表記や神社名などの土地の名称に使われます。

太宰府天満宮などは「太」宰府です。

 

日本史の設問の解答は「大」宰府が正解ですので、間違えないようにしましょう。

 

まとめ

 大宰府とは、九州の筑前国筑紫郡に置かれた政府機関のこと。

 起源は「那津官家(なのつみやけ)」といわれており、白村江の戦いの影響により内陸部へ移設される。

 701年の大宝律令により、九州全体を治める律令制最大の地方官衙(役所)になり、与えられた権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた。

 条坊制を布いた防衛都市であり、50人の官人が置かれていた。

 藤原広嗣の乱で一時的に大宰府は廃止される。

 その後、平氏が進出してくるが、滅亡後鎌倉幕府の成立により、律令制の大宰府は終わりをつげる。

 権威としての「大宰府」は生き続け、数々の有力武士によって治められてきた。

 幕末、尊皇派の五卿が太宰府に移されたことにより、勤皇の志士たちがこの地を訪れ、「明治維新の策源地」と呼ばれた。

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