江戸時代に各藩は優れた侍を作るために教育や訓練の必要性を感じ、学校を作り始めました。
それまでには無かった庶民への教育の概念を覆した武士の学校『藩校』。
今回は、そんな藩校(はんこう)についてわかりやすく解説していきます。
目次
藩校とは
(忍藩の藩士 出典:Wikipedia)
藩校とは、江戸時代に各藩が藩士(藩に仕える武士)を教育するために作った施設のことです。
教育の内容は漢学を中心とした儒学などと合わせて武芸を教える場でした。
時代が進み、外国の文化などが入ってくるようになると国学、洋学、医学なども追加して教えるようになった教育機関です。
明治時代になった当初は、全276藩のうち215藩が藩校を作っており、ほとんどの藩が藩校を作って教育をおこなっていたことがわかっています。
藩校ができた背景と目的
①士農工商
江戸時代には士農工商という身分制度がハッキリと分かれていました。
武士が最も力を持っている支配者層であり、それ以外の立場の人は庶民や町民として分類することができます。
②藩校の始まり
そのため支配者層である武士に対しては文武両道が求められ、教養が求められました。
教養を身につけるために藩のトップである藩主自らが藩を統治するために教養を身につけようとしました。藩主の屋敷などに兵学者や儒学者を招き講義を行ったのです。
これが、江戸時代の教育の始まりと言われています。
そして、藩主だけが講義を聞くのではなく、自分の側近の者・重臣を集め、同じように講義を聞かせました。
重臣だけでなく、一般の武士にも教養が必要であると考えた藩主は自らの藩士に文武両道と学問を求めました。
中世の武士たちは寺院などで僧侶を師として学問を学んでいましたが、近世になると城下に学校を作り教養を学んでいきました。それが藩校の始まりです。
最初は数藩が作っていたに過ぎませんが、近世に近づくにつれて小さい藩も藩校を作り始めました。
③藩校の講義拡大
漢学、特に儒学・朱子学を学ぶことの多かった藩校ですが、近世に近づくにつれて国学が学ばれるようになり、蘭学や西洋医学にまで広がっていきました。
また、学問だけではなく、武術に関しても藩校と連携して訓練をおこなうようになったため、文武共に学ぶ場所として総合教育機関の藩校が完成していきます。
これにより優秀な藩士を育てるための総合教育をおこなうに至るのです。
有名な藩校
(水戸藩弘道館 出典:Wikipedia)
有名な藩校はいくつかあり、現代の学校につながっているものも多くあります。
以下の学校が有名な藩校です。
①会津藩の日新館
白虎隊も学んだと言われている藩校です。
②岡山藩の閑谷学校
岡山藩の閑谷学校は、全ての藩校の中で一番初めに作られたものです。
作ったのは岡山藩の藩主池田光政が藩主の時に作られたと言われています。
③米沢藩の興譲館
上杉綱憲が作った藩校です。上杉の藩校として高い教育のレベルで有名でした。
④紀州藩の学習館
国学者の本居宣長の出身である藩校です。
現存はしておらず学習館大学とは関係がありません。
⑤長州藩の明倫館
長州藩の明倫館では、総合教育機関としての役割と同時に図書館としての役割も果たしていた藩校です。
ここの出身者には有名な人も多くおり、桂小五郎や吉田松陰、高杉晋作、井上薫などが出身です。
⑥熊本藩の時習館
細川重賢によって作られた藩校です。
当時では珍しく体罰を否定した考え方で有名な藩校です。
⑦摩藩の造士館
島津重豪鹿児島状の前に設置した藩校です。
勉強だけではなく弓道場や剣道場も用意しており、文武両道を実践していた藩校です。
幕末に活躍した薩摩藩だけあって西郷隆盛や大久保利通、黒田清隆など多くの人間を排出しています。
⑧水戸藩の弘道館
水戸藩の弘道館は、尊皇攘夷運動の中心となる考え方を教えていたことで有名な藩校です。
藩校の必要性
藩校とは、自分たちの治める藩を優れたものにするために藩士の子息を訓練する場です。
藩士と言っても学問は必要であり、当時は武断政治と呼ばれる武力での支配の時代から文治政治という学問によって民を治める方法こそ美徳とされた時代でした。
そのために各藩主たちは藩校を作り藩士の子息に学問を修めさせました。
藩校の教育内容
藩校は、自分たちの藩の次の世代を担う藩士の子息への教育機関であると話をしてきました。
藩校で学ぶ内容は儒学や朱子学を中心とした漢学でした。
漢学を中心に学び、兵学、皇学、医学、洋学など幅広く学びました。
これらは各藩が自由に決定をしており、一つ一つの藩で教える内容は異なっていました。
上記で紹介をした通り、文武両道のために武芸も藩校で教えている場所もあります。
藩校と寺子屋の違い
藩校と寺子屋の違いがわからなくなる人が居るようですが、藩校は藩士の教育機関です。
つまり、武士を教育するための場所が藩校です。
一方、寺子屋は庶民の教育機関です。そのため、庶民や農民の子息が学びに行く場所が寺子屋です。
藩校と私塾の違い
藩校とよく間違えられるものとして私塾があります。
藩校に関しては、各藩が自分の藩士の子息を立派な藩士に育てるために開いたものであることは既にお伝えしてきました。
私塾との違いは、私塾は今でいう大学であること。つまり、一般的な教養である読み書き計算、兵法などを学んだうえでさらに深い学びを求めて作られたものが私塾だったのです。
例えば、シーボルトの開いた鳴滝塾や吉田松陰の松下村塾などが私塾の例としてあります。
藩校が参考にしたもの
(昌平坂学問所 湯島聖堂の「大成殿」 出典:Wikipedia)
江戸幕府が学問を学ぶ場所として作ったものが昌平坂学問所です。
これが、各藩の参考となり藩校に取り入れられました。
昌平坂学問所が採用していたのが、幕府が正式な学問として認めていた朱子学でした。
そのため、各藩でも朱子学を中心とした漢学が学ばれていたのです。
藩校の覚え方
①東の4校
会津ニシンの米沢工場を秋田の姪と見とこンドリア!
この呪文で、以下の代表的な東の4藩校を覚えることができます。
東の4藩校
✔ 会津の日新館
✔ 米沢の興譲館
✔ 秋田の明徳館
✔ 水戸の弘道館
②西の4校
次週のくまモンと萩メリは象印のカゴで福岡周遊
今度は西の代表的な藩校4校です。
西の4藩校
✔ 熊本の時習館
✔ 萩の明倫館
✔ 鹿児島の造士館
✔ 福岡の修猷館
これらを今度は覚えられます。何度も口にだし覚えてみましょう。
まとめ
✔ 藩校とは自分の藩の藩士の子息を育てるために作られた学校の前身である。
✔ 藩校で教えていた内容は昌平坂学問所を参考にし、漢学が中心であった。
✔ 藩校で教えていた内容は儒学、朱子学を中心とした漢学だが、のちには洋学や医学など藩校によって自由に決定されていた。
✔ 藩校と私塾、寺子屋は別のものでありそれぞれ違いがある。
✔ 寺子屋は、農民や職人、商人の子供たちを教育する機関である。
✔ 私塾は大学と同じ扱いで、藩校や寺子屋で学び終えた子供たちが深い学びを求めて通った対象年齢の高い場所である。