618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。
より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。
日本では大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。
それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。
今回は、『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
班田収授法とは?
班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。
大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改新の詔が発せられます。
そのうちの一つが班田収授法であり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありあました。
班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。
班田収授法が制定された背景
(8世紀前半の唐 出典:Wikipedia)
班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。
日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
①唐の律令制
唐では日本に先駆けて中央集権的な律令国家の整備がすすみました。
618年に唐がおこると、三省六部制(さんしょうりくぶせい)と呼ばれる中央官制やのちに班田収授法のお手本となった均田制を採り入れ、租庸調による税制を確立しました。
均田制は北魏に始まり隋でも制度化されますが、唐での均田制は大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田(えいぎょうでん)が認められました。
土地が不足する地域では貧しい者を優先して給田される一方、官人などは地位によって官人永業田を与えられるなど身分による違いがありました。
②改新の詔
大化の改新後の646年、4条からなる改新の詔が発せられます。
いずれも中央集権的な律令国家を目指す上で重要なものでした。
✔ 第1条:王族や豪族が土地・人民を所有することを禁止する公地公民制を定めた
✔ 第2条:地方行政組織を、京師(けいし)・畿内(きない)・国・郡・里と定めた
✔ 第3条:戸籍や計帳をつくって班田収授法を行うことを定めた
✔ 第4条:田地面積に応じた新しい税制を定めた
改新の詔の条項は少しずつすすめられますが、班田収授法についてはこの時点では戸籍はなく実際に実施されるのはまだ先になります。
ただし、改新の詔は時代に合わない記述が多く、実際の646年よりも後に書かれたものだという説もあります。
③戸籍の整備から班田収授法の実現へ
670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍がつくられます。
これは、全国的で豪族から公民・部曲(かきべ)・奴婢(ぬひ)までの全ての階層で戸籍としては全国で初めてのものでした。
庚午年籍は全国民に氏姓を定めて、氏姓の根本台帳として保存されました。
これにより、徴税と徴兵が容易になりますが、まだ公地公民が徹底しきれていなかったために豪族の不満は高まることになります。
持統天皇は、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し戸籍の作成を命じると、690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が完成しました。
この庚寅年籍により五十戸を一里とした国・評・里・戸の制が確立すると、戸籍に基づく口分田が班給され全国的に班田収授法が始まったとされています。
こののち、701年の大宝律令や718年の養老律令でも班田収授法が規定されました。
このように、政府は全国の人民を戸籍・計帳に登録し、律令体制による支配を隅々まで浸透させようとしました。
戸籍とは、戸を単位とした課役(かえき)、良民と賎民(せんみん)の区別、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされ、6年ごとにつくられました。
また、計帳は調と庸を徴収するための基本台帳であり、全国の推移を把握するために毎年つくりかえられました。
班田収授法の内容
①概要
6年に1回つくられる戸籍に基づいて班田収授も6年に1回行われ、六年一班とも呼ばれます。
新たに受田資格を得た者に口分田を班給し、その間に死亡した者の口分田を収公するというものでした。
②手続き
戸籍作成の翌年に手続きを始め、その年の10月1日から11月1日までの間に帳簿が作成されて、前回と比較して変更となる部分を洗い出します。
その翌年の1月中に太政官に申請されて、2月中に許可がおり実施となりました。
③田の分類
田の種類には、租を収める義務のある輸租田(ゆそでん)と租を免除された不輸租田(ふゆそでん)がありました。
また、田ではない土地については一般の戸口に永久に与えられた宅地や園地は売買自由とされ、山川や原野、沼沢などは共有の土地とされました。
輸租田には、位田(いでん)、功田(こうでん)、賜田(しでん)、郡司所有の職田(しきでん)がありました。
位田は五位以上の位階を持つ者に与えられ、功田は功績のあった者に4等級に区別され与えられました。
賜田は特別功績のあった者や高識者を優遇するためのもので、恩勅によって規定以外に賜った土地のことです。
不輸租田は、寺田(じでん)、神田(しんでん)、職田です。
寺田と神田はそれぞれ寺院や神社の運営に必要な田地のことを言い、職田は官職に応じて与えられた土地で高級官僚と国司、郡司などにもあたえられました。ただし、郡司の職田は輸租田でした。
④班給面積
1町=10段=3600歩、1歩=約3.3㎡と計算します。
口分田は、良民男子は2段、良民女子は男子の3分の2の1段120歩、官有の賎民である官戸(かんこ)や官有の奴隷である公奴婢(くぬひ)は良民と同じ、私有の賎民である家人(けにん)や私有の奴隷である私奴婢(しぬひ)は良民の3分の1で男子240歩、女子160歩が与えられました。
位田については、正一位が80町、従一位74町、正二位60町、従二位54町、正三位40町、従三位34町、正四位24町、従四位20町、正五位12町、従五位8町と段階的に定められていました。
職田は、中央の太政大臣に40町、左右大臣に30町、大納言には20町が与えられました。
また、地方の役人には、太宰府(だざいふ)には4町〜10町、国司には1町〜2町6段、郡司には2町〜6町などが与えられました。
功田は、勲功を四等に区分して4町〜100町が与えられ、1〜3代まで相続することができました。
なお、奈良時代では恵美押勝(えみのおしかつ)が特別に永久的な私有を認められています。
賜田については、主に有力豪族に与えられていたとされています。
とくに面積は規定されていませんでしたが、官位を解かれると収公されました。
班田収授法のその後
奈良時代末期には、口分田を捨てて戸籍に登録された本籍地を離れて浮浪したり逃亡したりする農民が増えていきました。
また、地方豪族に身を寄せたり、勝手に僧侶となったりすることで律令制における租税制度から逃れる者もあらわれます。
政府は人口増加により口分田が不足することから、百万町歩の開墾計画、723年には未開の地を開墾すると三世に渡り私有できる三世一身法、743年には開墾すると永久に私有できる墾田永年私財法をだすなど、耕地拡大をはかりました。
このような問題から、平安初期ごろには班田収授は実施されなくなります。
まとめ
✔ 班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて実施された、戸籍に応じて口分田を班給する制度のこと。
✔ 律令国家を目指す上での一つの制度して、改新の詔で唐の均田制にならった班田収授法を実施することが定められた。
✔ 庚午年籍などの戸籍が整備されると班田収授法が定着していくものの、口分田の不足や浮浪・逃亡者の増加などにより有名無実化していった。
✔ こうした律令国家への動きが、のちの日本に影響を与えた。