京都で開かれた室町幕府は地方を監視する機関を設置していました。

 

その中で関東地方を統括する鎌倉府は大きな勢力を持ち、幕府に対抗するまでになりました。その中で起こったのが結城合戦です。

 

今回はそんな『結城合戦(ゆうきかっせん)』をわかりやすく解説していきます。

 

結城合戦とは?

(6代将軍足利義教 出典:Wikipedia)

 

 

結城合戦とは、1440年(永享12年)に起こった室町幕府と関東の諸豪族の間で争いのことをいいます。

 

室町幕府は6代将軍足利義教の時代でした。

 

義教は、自分の息子を関東地方の諸国を統括する鎌倉公方(かまくらくぼう)にしようとしますが、それに反対した下総(現在の千葉県北部と茨城県西部)の結城氏朝持朝の親子が反乱を起こします。

 

氏朝と持朝が、以前の鎌倉公方で幕府に反乱を起こして自害した足利持氏の子どもたちを擁して反乱の旗を上げます。

 

結城側は、結城城に立てこもりますが、1441年4月16日には幕府側に敗北し、落城します。

 

結城合戦が起こった背景

 

 

結城合戦の背景には、室町幕府と関東諸国を統括する鎌倉公方との攻防がありました。

 

①室町幕府と地方

室町幕府は、足利尊氏が京都で始めた武家政権です。

 

尊氏が幕府を開いた頃はまだまだ南北朝の動乱がある最中でした。

 

後醍醐天皇が率いる南朝と光明天皇が率いる北朝の間で対立があり、それぞれの天皇を支える武家たちが争っていたのです。尊氏は光明天皇を支持していました。

 

各地で南北朝の争いが続く中、尊氏は九州探題奥州探題などを各地に置いて、地方を監視に当たらせていました。そして、関東には鎌倉府を置きます。

 

もともと関東に勢力を持っていた足利氏には、重要な場所でした。

 

そのため、鎌倉府の長官となる鎌倉公方には尊氏の弟や4男といった足利氏直属の者たちを派遣していました。

 

②鎌倉公方の存在

もともとは、後醍醐天皇が関東を統治するための機関として設立したの鎌倉将軍府が始まりです。

 

その後、足利尊氏の室町時代に鎌倉府となり、その長官には尊氏の4男基氏(もとうじ)が就任し、代々基氏の子孫が受け継ぐことになりました。

 

また、鎌倉公方の補佐官である関東管領には上杉氏が就くという習わしになりました。

 

鎌倉府が管轄していたのは、現在の神奈川県、山梨県から茨城県、栃木県、群馬県などを含む広大な地域でした。

 

1400年に奥州探題が設置されるまで、現在の東北地方も管轄していました。それだけ大きな権力を持っていたのです。

 

そのため、時が経つにつれて鎌倉府が幕府に次ぐ大きな勢力を持ってきました。

 

鎌倉府の中で幕府に対抗する鎌倉公方と幕府側についていた上杉氏が対立するという構図ができてきたのです。

 

③永享の乱の発生

ついに、鎌倉公方の足利氏と補佐官の上杉氏との争いが始まります。

 

そこに足利将軍も加わり、幕府と鎌倉公方の争いへと発展します。それが1438年の永享の乱でした。

 

鎌倉公方は足利持氏、補佐官は上杉憲実、将軍は足利義教でした。

 

持氏は、基氏から4代の鎌倉公方です。足利義教が将軍になった年に年号が変わりますが、持氏は古い年号を使い続け、鎌倉府の管轄する地域は独立国家のようにしていたのです。

 

幕府寄りの上杉氏が、幕府に反抗する持氏と対立し、そこへ将軍である足利義教が持氏を討てという命令を出して、戦いが始まります。

 

1439年2月に持氏は自害して、戦いは終息。その際に、持氏の長男は父と同じく自害し、他の兄弟たちは下総の結城城の城主である結城氏朝に保護されます。

 

 

(結城 氏朝 出典:Wikipedia

 

結城合戦の内容

 

 

永享の乱から続く幕府と鎌倉公方の対立が、結城合戦を引き起こしました。

 

①結城合戦はいつ、どこで起こった

永享の乱の後、鎌倉府は滅亡します。

 

その後、将軍足利義教が自分の子どもを鎌倉公方に派遣しようとしますが、1440年3月に足利持氏を支持していた者たちやその子どもたちを保護した結城氏が幕府に反抗します。こうして結城合戦が始まりました。

 

幕府側は上杉家の当主上杉清方を結城氏討伐に送り、7月に結城氏朝ら反乱軍は結城城に立てこもります。

 

戦いの場となった結城城の跡は、現在の茨城県結城市に城跡公園となって残っています。

 

小高いところにある城跡公園には、空堀跡しか残っておらず、城の面影を想像するしかありません。

 

②結城合戦の結果

戦いが始まって、約1年後の1441年4月に、反乱を起こした結城氏朝が討ち死にします。

 

また、父氏朝と共に戦っていた長男持朝も自害し、結城城は落城します。関東諸国の豪族たちも反乱軍として参戦しましたが、やはり幕府軍は強かったのですね。

 

結城氏が保護していた持氏の子どもたちは幕府軍に捕らわれて、京都へ送られることになりました。

 

持氏の長男は、永享の乱の時に父と共に自害しますが、残されたのは春王(しゅんのう)丸と安王(あんのう)丸、永寿(えいじゅ)丸でした。

 

③結城氏とは

結城合戦の中心となった結城氏朝は、もともと栃木県小山市の当主である小山氏の生まれですが、養子として結城氏に入ります。永享の乱では、持氏について幕府と戦いました。

 

結城氏の先祖には、なんと平将門を討ち取った藤原秀郷(ひでさと)がいます。

 

 

(藤原 秀郷 出典:Wikipedia)

 

 

秀郷にはムカデ退治をした伝説もあり、勇ましい家系だったことがわかります。

 

幕府を相手に、1年間戦った氏朝の人物像が目に浮かんできます。今では、「結城合戦絵詞」などで、その勇ましい姿を見ることができます。

 

そして、あの有名な「南総里見八犬伝」の始まりのシーンが、結城城落城のシーンなのです。

 

結城側として参戦した里見義実(よしざね)が落城から逃げ落ちるところから、長い物語が始まります。

 

結城合戦のその後の影響

 

 

結城合戦は、後の時代にどのような影響を与えたのでしょうか。

 

持氏の3人の子どもの行方

結城合戦の後、幕府軍に捕らえられた足利持氏の子どもたち。

 

二男春王丸と三男安王丸は、それぞれ13歳と11歳でした。

 

結城氏朝は、自害する前に幕府側に女子たちの命乞いをしました。それは、幼い春王丸と安王丸を女装させて助けようという計画だったのです。

 

ところが、春王丸と安王丸は幕府軍に見つかり捕まってしまいます。そして、京都に送られその道中、二人は殺害されてしまいます。

 

二人の下には、四男永寿丸がいました。永寿丸はまだ4歳であり、幕府の管領である細川持之(もちゆき)がその殺害に反対したことと、戦場にいなかったこともあり、生き延びます。

 

 

(岐阜県にある春王・安王の墓 出典:Wikipedia

 

②享徳の乱の発生

足利持氏の四男永寿丸が後の足利成氏(しげうじ)であり、1448年に成氏は父と同じ鎌倉公方となります。

 

持氏の死亡以来断絶していた鎌倉府が、再び置かれたのでした。そして、その補佐官である関東管領には上杉憲実の息子上杉憲忠がなります。

 

鎌倉公方と関東管領である足利家と上杉家の対立が、また再燃します。

 

1455年に成氏は憲忠を暗殺し、享徳の乱が始まります。

 

乱は幕府・将軍家も加わり、28年間断続的に続き、持氏が起こした乱が子どもに引き継がれさらに大規模な乱となりました。

 

享徳の乱は8代将軍足利義政の時代に起こり、関東地方全体に広まり関東における戦国時代の発端になりました。

 

また、享徳の乱の間に応仁の乱が起こっており、享徳の乱を治められない将軍への不満が応仁の乱の一つの原因になったとも言われています。

 

③結城合戦絵詞(えことば)

結城合戦は永享の乱の流れで起こった戦いですが、その規模は永享の乱よりも大きく、後の時代にも影響を与えています。

 

結城合戦の模様は、「結城合戦絵詞(えことば)」と言う絵巻物になって、今に語り継がれています。

 

そこでは、春王丸と安王丸が結城氏朝にかくまわれ、女装して逃げようとしたが幕府軍に捕まえられ、氏朝が自害する様子が語られています。

 

まとめ

 結城合戦とは、1440年3月に結城氏朝と足利持氏の支持者たちが、幕府に対して起こした戦いである。

 結城合戦は、1438年に起こった永享の乱をきっかけとしている。

 永享の乱は、鎌倉公方の足利持氏が幕府寄りの関東管領である上杉氏と対立したために起こした反乱である。

 結城合戦で、結城城は落城し、幕府側の勝利となる。

 持氏の遺児、足利成氏は鎌倉公方となり、再び上杉家と対立し、28年間続いた享徳の乱を起こす。

 享徳の乱は、関東地方における戦国時代の発端となった。




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