【朝鮮出兵とは】簡単にわかりやすく解説!!出兵理由や結果・その後の影響など

 

朝鮮出兵は豊臣秀吉が天下を取った時代の最後に起きた非常に大きな戦です。

 

日本が朝鮮半島を舞台にした戦を1000年ぶりに行ったという意味でも歴史的な出来事でもあります。

 

この戦役により、東アジア情勢が大きく変化する事となります。

 

今回は16世紀の東アジアを変えるきっかけとなった「朝鮮出兵」について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

朝鮮出兵とは?

(朝鮮戦役海戦図屏風 出典:Wikipedia)

 

 

朝鮮出兵とは、文禄の役(1592年~1593年)と慶長の役(1597年~1598年)を合わせた二つの戦役のことです。

 

(※朝鮮出兵という呼び名以外に「文禄・慶長の役」「朝鮮征伐」でも知られています)

 

天下統一を達成した豊臣秀吉は明の征服を目指し、配下の諸大名による遠征軍を組織しました。

 

そして進行通路である李氏朝鮮に服属を要求しますが拒否され、遠征軍がそのまま朝鮮攻略を開始しました(文禄の役)。

 

遠征軍が首都に攻め込むと李氏朝鮮は首都を放棄。しかし朝鮮国王宣祖は明軍に援軍要請し抵抗します。

 

その後、戦線が膠着したため停戦の講和条約を結び一時停戦となりましたが、講和時の要求が守られなかったから、日本側は再度遠征軍を組織して攻め込みました(慶長の役)。

 

ただ、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなったため、戦争は終結することになります。

 

戦争の影響により、明・李氏朝鮮は国力を低下。日本側でも豊臣家内の対立を招き、後の関ケ原の戦いへの遠因を作ることになりました。

 

朝鮮出兵が行われた背景

(朝鮮征伐大評定ノ図 出典:Wikipedia)

 

 

朝鮮出兵が起きる背景には様々な要因があると考えられています。

 

出兵自体が起こるまでに準備期間が設けられており、数年かけての計画であったとされています。

 

その中での日本・朝鮮・明それぞれの思惑などが絡まりあい、結果的に戦乱になりました。

 

①なぜ朝鮮出兵に至ったのか?

(出兵を行なった豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

 

日本側の理由は現在でも議論される内容とされています。

 

豊臣秀吉がなぜ大明帝国への侵攻を考えていたのかは今尚わかっていません

 

考えられる理由としては・・・

  • 元の主君である織田信長が考えていた中国侵略の構想を実現しようとしたという説
  • 実弟豊臣秀長と自らの嫡男である豊臣鶴松が亡くなったことがきっかけであったという説
  • 征服・領土拡大目的の説

など様々な説が考えられています。

 

ただ一つ言える事として、秀吉は明の攻略には長期間の準備期間を設けています。

 

少なくとも関白に就任した1585にはその考えを抱いていることから思い付きではないという事がわかります。

 

②李氏朝鮮側の状況

当時李氏朝鮮は日本の対馬を経済的な側面から支配していたため、対馬(宗氏)を介して日本と交渉する事となりました。

 

秀吉は明国征服のために朝鮮国を属国にしようとしており、対馬を介してその交渉を図っていましたが交渉自体が決裂します。

 

文禄の役直前の1591年には朝鮮通信使より国王へ日本が攻め込んでくる可能性についての報告がありましたが、朝鮮朝廷内の政権争い(西人派と東人派)の中でその報告は無視されることになりました。

 

 

そのため、戦争の準備が出来ていない李氏朝鮮は戦争開始後に大きく苦しむこととなります。

 

③戦争の準備

1591年より本格的に遠征の準備が始まりました。

 

天下統一を成し遂げたため国内の障壁が無くなったこともその要因といえます。

 

諸外国に大船、軍資金、兵糧を準備させました。

 

また拠点となる城として、肥前国(現在の佐賀県)に名護屋城の築城を行います。

 

この城に総監軍として10万の部隊を配備し、出征軍15と合わせて25万の部隊を準備。

 

この当時、日本の総兵力は50万人であったとされているため、日本国兵のおよそ半分程度は招集されていた事になります。

 

なお余談ですが、この時築城された名護屋城は江戸時代に起きる島原の乱などにより廃城されたとみられていて、現在では一部分だけが残るだけとなっています。

 

朝鮮出兵の内容詳細

文禄の役『釜山鎮殉節図』 出典:Wikipedia)

①文禄の役

名護屋城に陣を置き、15万人の出征隊によって朝鮮出兵は始まりました。

 

総大将は宇喜多秀家が務めました。五大老の中でも秀吉の明国征服へ真っ先に同意を示した人物でした。

 

 

(宇喜多秀家 出典:Wikipedia)

 

 

宇喜多秀家は総大将として後述する部隊の中で七番隊の大将も努めました。

 

出征隊は一から九番隊まで編成され、日本水軍らと共に韓国・釜山へと上陸します。

 

一番隊の小西行長が先鋒を務めました。これは元々行長が対朝交渉を担っていたためで、交渉決裂した事の汚名返上をするために志願したとされています。

 

 

(小西行長 出典:Wikipedia)

 

 

4月12日に上陸し二日程度で釜山周辺を攻略。その後一気に進軍し、朝鮮国の都である漢城(現在のソウル)へ行軍し、開戦からものの21日で陥落させることとなります。

 

なお、一番隊の小西行長は二番隊の加藤清正ともめていたとされています。

 

 

(加藤清正 出典:Wikipedia)

 

 

単なる武功争いではなく、元々文治派の行長と武断派の清正は隣国同士でしたが、この戦争を機に折り合いがかなり悪くなったされています。

 

負け続けた李氏朝鮮でしたが、首都陥落後にこの戦役で初めて勝利します。

 

朝鮮水軍を率いた李舜臣の部隊によって、海戦(玉浦の戦い)で勝利を収めました。

 

朝鮮軍の船は亀甲船であったといわれており、また日本側が海戦を想定しておらず強固な水軍を準備していなかった事もその要因とされています。なお李舜臣はこの役での活躍で今も韓国などでは国民的な英雄とされています。

 

日本軍は進軍を進め、各方面軍による制圧に取り掛かりました。しかし、7月に入り、明軍が参戦します。戦闘では日本側が打ち破りますが、いったん進撃を平壌で停止して防備を固める事となりました。

 

この時期に二番隊の加藤清正はヌルハチ率いる女真族がいる地域、オランカイ(満州地方)との戦闘を行います。これは満州ルートからの明国攻略を検討するつもりでしたが困難だという判断だったようです。

 

その後、本格的に明軍が参戦しますが、碧蹄館の戦いにて日本軍に大敗を喫する事となります。これにより、文禄の役は明国との講和による休戦へと向かっていきます。

 

講和は朝鮮がそのテーブルに座ることなく、日本と明による交渉で進んでいき、その結果一時的に休戦となります。

 

しかし穏便に講和を結ぶため、秀吉へは明が降伏したという報告をし、明朝廷には日本が降伏したという報告をしたことで戦が再度起きる事となります。

 

②慶長の役

(慶長の役『蔚山籠城図屏風』 出典:Wikipedia)

 

 

講和により一時的な停戦状態となっていましたが、秀吉の考えていた講和要件が受け入れられていないことが明らかとなってしまいました。

 

その中で明より日本国王の称号と金員の授与が行われましたが、朝鮮王子が来日しなかったことが原因の一つになっているとも去れています。

 

和平交渉が決裂すると再度遠征軍として14万人ほどの軍勢を出兵させました。

 

総大将は変わって小早川秀秋が務める事となりました。(※関ケ原の戦いで有名な西軍から東軍への裏切りを行う人物です)

 

 

(小早川秀秋 出典:Wikipedia)

 

 

慶長の役も戦の開始より日本が勢いよく進軍していきます。

 

蔚山戦役にて勝利をおさめましたが、1598年に秀吉が死去する事で戦の継続について大きな影響が生じます。

 

勝利後は6万人超の兵士を朝鮮半島に残して元々1599年に三度目の出兵を検討。しかし、秀吉が亡くなったことをきっかけに日本側の撤兵への動きが加速します。

 

なお、死後すぐに撤退したわけではなく何度かの大きな戦いが起きています。第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いにて籠城することになりました。それぞれの戦で明・朝鮮連合軍は人数で大きく上回っていたにも関わらず多数の被害を出し敗北します。

 

その後国内の政治情勢の悪化などに伴い、対外戦争を続ける余裕がなくなったこともあり日本軍は撤退する事となります。撤退時にも露梁海戦とよばれる最後の海戦が行われています。

 

この戦では日本側も苦戦しますが、朝鮮側も李舜臣をはじめとした多くの将官が亡くなる事となりました。

 

その後は徳川家康の委任を受けた宗氏によって和平交渉が進みました。

 

朝鮮出兵の結果とその後

 

朝鮮出兵後は、日本・朝鮮・明国それぞれに大きな影響を与えました。

 

①日本への影響

朝鮮出兵により多くの西国大名が疲弊しました。武器や兵糧、人的資源は各大名の自己負担であったためです。

 

また捕虜を国内に連れてくることで使役させられたという側面もあります。

 

大名家に関しても豊臣家の家臣団が分裂し、文治派と武断派の派閥争いは苛烈化します。

 

また、朝鮮出兵の際に日本国内への出陣で止まった徳川家が強い力を持つようになりました。

 

五大老の筆頭としても和平交渉などで主導権を握り力を示しました。

 

なお「徳川家と豊臣家武断派vs豊臣家文治派」という対立が起こり、最終的に関ケ原の戦いとなっていきます。

 

 

その他の影響として、文化的な影響がみられました。朝鮮人儒学者との交流や文芸などの文化的な交流、さらには陶工によって大陸式磁器の製法が伝わりました。

 

その中でも特に有名な物に鍋島家(肥前国)によって連れられた李参平が編み出したとされる有田焼があります。

 

②朝鮮への影響

朝鮮半島は戦場となったこともあり、治安の悪化などが起こるだけでなく、戦中の兵糧が明国軍の分として徴用されたため食糧不足などの問題も生じました。

 

そして多額の財政負担を強いられることになりました。

 

また戦地となったので当然ではありますが、対日感情の悪化も生じました。この感情の悪化は現在の日本との関係のルーツとも言われています。

 

なお、文化的な交流もあり、日本軍の使用していた軍事品に近い武具が製造されたり、トウガラシなどがもたらされる事にもなりました。

 

③明への影響

明への影響として膨大な軍事費と戦死者による国力の低下が生じました。

 

満州国付近にいた女真族の台頭を防ぐことはできなくなり最終的に1644年に滅亡する事となります。

 

なお、明国が倒れた後はオランカイにいた女真族の棟梁、ヌルハチによって清国が建国されました。

 

まとめ

 朝鮮出兵がおこなわれた明確な理由は不明である。

 日本は朝鮮出兵の中でほとんどの戦で勝利していた。

 戦後、朝鮮と明は国力を大きく下げ、明は最終的に国がつぶされる事となった。

 日本では戦後、大名間同士の争いが盛んとなるだけでなく徳川家の台頭が起きる要因にもなった。

 戦役により文化的な交流が生まれた。