【朝貢貿易とは】簡単にわかりやすく解説!!貿易が始まった背景や特徴・影響など

 

かつて中国との間で行われていた貿易は朝貢という形式で行われていました。

 

これは表面上は貿易ではなく貢物を送り、その返礼を受け取るという形を取っていたのです。

 

今回はこの『朝貢貿易』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

朝貢貿易とは? 

 

朝貢貿易とは、中国と周辺諸国の間で行われていた貿易のことです。もちろん日本も行っていました。

 

そもそも朝貢貿易の朝貢というのは中華王朝に周辺諸国が臣下の礼を取り、貢物を送ること。中華王朝はその返礼として王位や物品を与えます。

 

物を交換しているので、あたかも貿易を行っているのと同じ状態でしたので朝貢貿易と呼ばれました。

 

朝貢貿易が始まった背景

(中華思想の概念図 出典:Wikipedia

①中華思想

 朝貢という制度を理解するためには中華思想についても知らなければなりません。

 

中華料理など中国を指す言葉として定着している「中華」という言葉ですが、それぞれの漢字の持っている意味の如く、『世界の中心にある文化の開けた華やかなところ』という意味です。

 

「文化的に優れている中華王朝が周辺の野蛮な異民族に文化を伝搬していかなければならない」「周辺諸国が中華王朝を敬い臣下の礼を取ってくることで中華王朝の威厳も上がり、中華王朝における政権の正当性も保たれる」という考えを持っていました。

 

こうした考え方を中華思想、あるいは華夷思想ともいいます。

 

周辺諸国はただ単に外交儀礼として挨拶に来るだけではなく、贈り物も持っていかなければなりません。

 

逆に、臣下の礼を取ってきた国に対して手ぶらで返すわけにもいきません。

 

自分たちを世界の中心と自任している中華王朝からすると、もらった以上の品々を渡さなければ威信が落ちます。そのため数倍から数十倍の品をお返しに送っていました。

 

こうして出来上がっていった仕組みが「朝貢」というわけです。

 

朝貢を行うということは中華思想の仕組み、すなわち華夷秩序の中に組みこまれるということです。

 

内政や外交的に支配されるわけではありませんが、中華王朝を主とし自らをその属国と認めるということでもありました。

 

②周辺諸国のメリット

貢物を持っていく周辺諸国のメリットとしては、自分たちが持っていった貢物以上の返礼品をもらえることです。

 

自国内では手に入らないものであったりするので、経済的な効果は計り知れないものがありました。

 

後述しますが、国内に領有する土地が圧倒的でなかった室町幕府が優位に立てたのも朝貢を利用した日明貿易による利益が大きかったからでした。

 

また、中華王朝である北宋と国境を接していた西夏では名を捨て実を取るという形で盟約を結び、北宋から多大な物資を得ることで経済的な繁栄をもたらしました。

 

また地域の強大な国家である中華王朝の後ろ盾を得られることで、周辺諸国にとっても政権の正統性が得られるというメリットもありました。

 

朝貢を行っていた国々の全てがこの狙いもあったわけではありませんが、中華王朝と主従関係を結ぶことで国内の安定がもたらされた国があったことも事実です。

 

③中華王朝のメリット 

中華王朝側にとってのメリットの一つは政権の安定性を保つことです。

 

皇帝は「徳のある人物」とされてきたので、周辺の国々が皇帝の徳を慕ってやってきたというのは王朝側にとっては自国内へアピールできる大きな出来事でした。

 

こんな遠くからも自分の徳を慕ってやってきた使節がある、だからこの国はすごいんだ、というわけですね。

 

莫大な返礼品を帰さなければならないにも関わらず、朝貢を行っていたのはそんな側面があったからです。

 

もう一つ実際的なメリットは安全保障に関わることです。中華王朝が仮に周辺諸国を支配したとしても、軍隊の駐留費など支配をするための費用がたくさんかかってしまいます。

 

しかも周辺地域はそこまで経済力がないので得られるものはあまりありません。であるならば朝貢体制に組み込み平和的に主従関係を結んでしまったほうが効率がいいというわけです。

 

また、軍事的に周辺諸国のほうが強大になったとしても朝貢と同じような体制を築くことで平和がもたらされました。

 

これは特に軍事力はないが経済的には大きく発展した北宋時代に見られたことです。

 

先述の遼や西夏といった新興の軍事国家に対して、平和条約を結んだのです。内容は北宋を主、遼や西夏を従とする関係を結び、その代わり北宋から毎年物資を送ることとされました。

 

北宋側としてもそこまで痛まない程度の負担で平和がもたらされたので、その後の発展に大きく寄与したのです。

 

日本と中華王朝の朝貢貿易 

①日明貿易

日本が朝貢貿易として大きく関わってくるのは日明貿易です。

 

を建国した朱元璋倭寇という日本人や朝鮮人による海賊に悩まされていました。これの取締りを室町幕府に依頼し、その見返りとして朝貢貿易を認めたのです。

 

 

貿易から得られる利益を求めた、室町幕府の将軍足利義満は倭寇を鎮圧し、明より日本国王の称号を得ます。

 

倭寇と区別するため、貿易船は勘合符という札を持っていました。札を照合することで正式な船と認められたのです。

 

従って、このとき行われた日明貿易を勘合貿易とも言います。

 

 

室町幕府はその成立過程から各大名に大きな領地を与えていたために、将軍家の経済力・軍事力が相対的に弱いという宿命にありました。

 

しかし、明との貿易を独占することによって圧倒的な経済力を身につけたのです。

 

先述のように日明貿易は朝貢貿易の一種ですから、日本から持っていった以上の物資をももらうことができます。主な物資として日本は銅や刀剣を輸出し、銅銭や生糸や書物を輸入しました。

 

銅銭が入ってきたことで日本にも貨幣経済が浸透し始め、書物は北山文化東山文化に影響を与えることになります。

 

 

しかし、明と中心とした中華体制に組みこまれることに対する反感を持つ人もいました。義満の死後、日明貿易は中止と再開が繰り返されます。

 

応仁の乱ののち幕府の権力がなくなると細川氏大内氏といった有力大名が日本側の主体となってこの貿易を行っていました。

 

 

しかし、大内氏の滅亡によって日明貿易も終わります。

 

②琉球貿易

 15世紀に沖縄では琉球王国が成立します。琉球王国では中継貿易が行われていました。

 

 

中継貿易とは、輸入したものを自国で消費するのではなく、そのまま他国へ輸出する貿易のことです。

 

地理的に東南アジアと日本・中国・朝鮮の中間に位置する沖縄は中継貿易にはうってつけの場所でした。

 

例えば、日本から東南アジアへ行かなくても沖縄へ行けば東南アジアの物資がそろっているわけです。これは現在でも貨物輸送などで沖縄が拠点となっていることでも見られます。

 

日本と明との間の貿易は戦乱や政治的な問題で中断があった時期がありましたが、その間でも琉球貿易は続けられていました。

 

琉球で取れる馬や硫黄だけではなく、日本産の刀剣や東南アジアの物産も明に献上されました。

 

明からもたらされた銅銭は日本との貿易で使われるなど明との朝貢貿易は琉球を支えました。

 

しかし、16世紀になるとポルトガルが東南アジアに進出し、日本も直接東南アジアや中国との貿易をするようになり、琉球の存在価値が薄れてきました。それぞれが直接貿易をするようになったのです。

 

やがて琉球王国は薩摩藩島津氏の侵攻をうけます。

 

これにより事実上薩摩藩の支配下に入った琉球では、薩摩藩の経済的な支援のもと明が滅んだあとの中華王朝となった清との朝貢貿易を続けていきます。

 

江戸幕府からも認められていたこの貿易により薩摩藩は財政面で大きく助けられることになります。

 

朝貢貿易の終わり

(明と周辺諸国 出典:Wikipedia)

明の時代

朝貢貿易は中華皇帝の徳を示す必要があるために、周辺諸国の貢物に対して多大な返礼品を用意しなくてはなりません。

 

明の初期、永楽帝の時代には鄭和がアフリカまで大遠征を行ったこともあり、朝貢国は増加しました。

 

 

(永楽帝 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、それは明の経済を圧迫することにもなります。そのため明では朝貢の回数や人数を制限する事態が起こりました。

 

さらに関税まで貸されるようになると、朝貢国が減少していくことになります。

 

こうして朝貢貿易は衰退し、密貿易が増えていくようになりました。

 

清の時代

ヨーロッパで大航海時代が起こると、スペインとポルトガル、ついでイギリスとオランダが東アジアまで進出してきました。

 

清朝では貿易を広東に限定してヨーロッパと貿易をしていました。全面的な貿易を求めるならば朝貢という形でないといけない、としたのです。

 

イギリスはこの制限を改善しようと使節を派遣しますが、清朝はそれならば臣下の礼を取るようにと求めました。

 

結局イギリス側が拒絶したために、この使節は役割を果たせなかったのですが、これが軋轢のもととなります。

 

その結果としてアヘン戦争が起こり、清朝が没落していく契機となったのです。

 

清が弱体化していく中で朝貢国も減っていき、朝貢貿易は終焉を迎えました。

 

まとめ

 朝貢貿易とは中華王朝を主とする華夷秩序に組み込まれた貿易体制のこと。

 貢物以上の返礼品がもらえるので周辺諸国は名より実を取る形でこの体制に入ったものもあった。

 日本では室町幕府の足利義満により日明貿易(勘合貿易)が代表例。

 琉球を介して朝貢貿易の恩恵にあずかることもあった。

 中華王朝は経済的な負担があるものの、安全保障面で役立った。

 明代には経済負担が大きくなり制限がかけられ離反する国が出てきた。

 清代になりヨーロッパ諸国との貿易が発生する中で朝貢貿易は衰退し、清朝の弱体化に伴って朝貢貿易は終わった。