奈良時代では、行基と鑑真という、2人の僧侶が出てきますよね。似たような感じのこの二人ですが、どちらも似た感じ。
覚えるのや区別をつけるのも、本当に厄介ですよね。
しかし行基と鑑真は、双方とも日本のために力を尽くしてくれた人物なんです。
今回は、『行基と鑑真の違い』について、時代についても含めて簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。
目次
行基と鑑真の違い
最初に、行基と鑑真の違いについてまとめていきます。
〇国籍が違う
行基・・・朝鮮からの渡来系日本人
鑑真・・・唐人(中国から来た人)
〇日本に貢献した内容が違う
行基・・・日本国内のインフラ制度を整え、社会事業に貢献
鑑真・・・日本の仏教の制度を整え、様々なものを伝えた
〇生きていた時代が違う
亡くなった時代を見ていくと・・・
行基・・・749年、奈良の大仏の完成前に亡くなる
鑑真・・・763年、唐招提寺で亡くなる
〇同じ僧侶でも立場が違う
行基・・・家柄もそんなに高くなく、国に弾圧されながらも、最終的には国に大僧正という僧侶の最上位を貰う
鑑真・・・唐の皇帝にも一目置かれ、朝廷から来日の声がかかるエリートだった
それではそれぞれ詳しく見ていきましょう。
行基について詳しく解説!
(行基菩薩坐像 出典:Wikipedia)
行基は奈良時代について調べようとすると、必ず登場する大変重要な人物です。
行基はこれからご紹介する功績により、民衆をはじめ、その後の日本の歴史にも大きな影響を及ぼす人物です。
また、行基の活躍は伝説となって、今なお各地に語り継がれているんです。
①行基は朝鮮からの渡来人系の日本人
行基は大阪の堺市で誕生していますが、その血筋は朝鮮からの渡来人系です。
渡来人といえば、仏教信仰に熱心な人が多かったという事情もあるので、納得ですね。
また行基の家系は先祖代々、朝廷に仕えていたと言われています。
②日本で屈指の社会事業を行う社会事業家
行基は偉大な社会事業家として歴史にその名を残していますが、これは師匠である道昭の事業を受け継いだとされています。
行基の社会事業の内容はというと・・・
- 橋の建設
- 道の建設
- 池の建設
- 溝の建設
- 樋(とい)の建設
- 船息(港のこと)の建設
- 平城京建設で働く人たちのための施設、布施屋の建設
つまり、農民たちが田畑を耕し、収穫物を京へ運ぶ基盤の建築のお手伝いや、平城京への使役や運送屋をしている人たちの支援をしていたのです。
③なぜか弾圧されてしまう
この様な素晴らしい事業をしていたにもかかわらず、行基はなぜか朝廷から弾圧を受けてしまいます。
その理由は僧侶としての振舞い、規定を定めた大宝律令の中にある僧尼令(そうにれい)に違反したからとされています。
僧尼令の中には、「僧侶は民たちに布教活動をするのなら、僧侶の地位を捨ててから行うこと」という規定があります。
当時の仏教には、国を守る力があると信じられており、人々の心の支えとして信仰されるものではありませんでした。
僧侶たちは、国のために働く選ばれた存在で、その為、重税を免除されていました。
つまり、仏教の広がりで僧侶になる人が増えると、国の税収が減ってしまうのを避けるために、僧侶によるは民への布教活動を禁止していました。そうしないと、国からしたら不都合な事態だったのです。
その諸悪の根源が行基だと考えられていたため、不条理な弾圧に遭ってしまうのです。
しかし、行基は国からの弾圧を無視して、民への布教活動や社会活動をつづけたのです。
②東大寺の建立に多大な貢献をする
743年、聖武天皇は度重なる反乱や飢饉、天災で乱れた国を仏教の力でどうにか守ろうと師、大仏建立の詔を発布します。
しかし、聖武天皇の考えむなしく、大仏建立のための人手が足りない!
ここで活躍したのが行基です。
この時代になると、行基の公共事業の業績も認められはじめ、行基に対する弾圧も弱まり、何と朝廷から行基に声がかかったのです。
なんとも都合のいい話・・・と言うのは置いていて、行基は自分を弾圧していた国(朝廷)からの依頼を了承。行基の呼びかけで、大仏を建立するための人手が集まったと言われています。
これを受け、行基は僧侶の中でも一番高い位である大僧正(だいそうじょう)を貰うことになりました。
鑑真について詳しく解説!
(鑑真和上像 出典:Wikipedia)
では、一方の鑑真について詳しく説明していきましょう。
鑑真は、日本の仏教史を大きく塗り替えた重要な人物です。
①鑑真は仏教制度を整えるために唐からやってきた
聖武天皇や行基が奈良の大仏を建立している頃に乱れた僧の風習をどうにかしたいと頼まれ、唐から日本にやってきたのが、鑑真です。
そう、鑑真は日本人ではないんです。
鑑真は、唐の皇帝からも才能豊かで博識高い僧侶として認められており、日本に行くことを止められていたほどの人物です。
しかし、日本から遣唐使の使いでやってきた普照と栄叡の必死の願いにより、鑑真は日本へ戒律を伝えに行くことを決意します。
②5度の失敗、6度目に奇跡の来日!
鑑真の来日については有名なお話の通り、来日に5度失敗し、遣唐使として来日した大伴古麻呂(おおとものこまろ)らの助けにより、6度目にして奇跡的に来日することに成功します。
ここまで来るのに約20年。普照と栄叡と鑑真の執念たるや頭が上がりません。
密航をばらされたり、投獄されたり、鑑真の目が失明したり、志半ばで栄叡が亡くなったりと波乱万丈の日本渡航でした。
③鑑真、授戒を行い、僧侶たちをより一層律する
鑑真はこうして戒律を日本にもたらし、僧たちには一層の厳格さが求められることとなりました。
鑑真は、奈良の大仏がある東大寺に授戒を行うための戒壇を設け、聖武天皇に授戒を行いました。
④唐招提寺を開き、そこで最期を終える
鑑真は来日後、唐招提寺を建立し、そこで暮らしていました。
(唐招提寺 金堂 出典:Wikipedia)
しかし鑑真は、763年に唐招提寺で人生の幕を下ろしたのでした。
⑤密教や天台宗を日本に伝えた
鑑真が日本にやってきた時、あの密教や天台宗の教えも伝えています。
鑑真が来なかったら、空海や最澄も有名になることはなく、比叡山や高野山もなかったかもしれません。
⑥和食や漢方薬も日本に伝えた!
これは驚きですが、鑑真がいなかったら、みそ汁や豆腐、漢方薬もなかったとされています。
和食がこうやって今でも食べられているのは、命を懸けて鑑真が持ってきてくれたからなんですね。
まとめ
✔ 行基と鑑真はどちらも日本のために力を尽くしてくれた人物。
✔ 国籍が違い、行基は朝鮮渡来人系の日本人、鑑真は唐人。
✔ 日本に貢献した内容が違い、行基は国内インフラ制度の社会事業に貢献、鑑真は日本の仏教の制度を整え、様々なものを伝えた。
✔ 生きていた時代が違い、行基の方が、鑑真よりも先の時代の人である。
✔ 同じ僧侶でも出自や立場が違う。行基の家柄はそこまで高くない。国に弾圧されながらも最終的には大僧正という僧侶の最上位を与えられている。鑑真は唐の皇帝から一目置かれ、弟子も多く抱え、日本の朝廷から来日の声がかかるほどのエリートだった。