【落飾と出家の違い】簡単にわかりやすく解説!!それぞれの意味や代表的な人物について

 

日本の歴史人物の多くは出家をしています。

 

出家(しゅっけ)とは世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入るという意味です。

 

落飾(らくしょく)という言葉も出家と同じく、世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入るといった意味を持っていますが、一般的に高貴な女性が仏門に入った際に使用される言葉となっています。

 

同じ意味を持つ落飾と出家ですが、使用する対象が少し違います。

 

今回はこの『落飾と出家の違い』について簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

落飾と出家の違い

 

まずはじめに、落飾と出家の違いについて簡単にまとめると以下のようになります。

 

違い

 

✔ 落飾(らくしょく)

高貴、身分の高い人が世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入ることを示す言葉。

主に仏門に入る高貴な女性に対し使用されていた。

 

✔ 出家(しゅっけ)

世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入ることを示す言葉。

出家という言葉は身分に関わらず、また性別問わず仏門に入る者に対し使用されていた。

 

 

それでは、ここからはそれぞれの言葉について詳しく掘り下げていきたいと思います!

 

落飾について詳しく解説!

 

落飾とは、高貴、身分の高い人が世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入ることを示す言葉です。

 

特に身分の高い女性が仏門に入る際に使用されます。

 

①仏教徒は主に在家と僧に分けられる

仏教徒は世俗で生活を営みながら仏道に帰依する者である在家世俗から離れ、また家庭生活を捨て仏門に入った僧侶に大きく分けられます。

 

つまり、一般的な家庭生活を送りながら仏教を信仰する者、一般的な家庭生活を捨て仏教を信仰する者に分けられるのです。

 

身分の高い人物が世俗から離れ仏門に入る際に「落飾」という言葉が使用されます。

 

坊主頭にしない女性も中にはいた

一般的な家庭生活を送る者が家庭生活を捨て仏門に入る際、男女ともに剃髪(髪を剃る)することが一般的でした。

 

しかし、中には坊主頭にするのではなくセミロング程度に髪を切りそろえる(切り髪)女性もいました。

 

落飾した有名な歴史人物

北条政子

北条政子平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性です。

 

鎌倉幕府を開く源頼朝の正室となり、頼家実朝大姫三幡を生みました。

 

源頼朝が鎌倉幕府を開くと「御台所」と呼ばれるようになります。

 

建久10年(1199年1月、夫の源頼朝が亡くなると北条政子は落飾「尼御台」と呼ばれるようになりました。

 

浅井初

浅井初は戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した女性です。

 

井長政と織田信長の妹・市の次女として誕生しました。

 

天正元年(1573年)父である浅井長政が叔父である織田信長と交戦するも敗北となり自害します。

 

その後母・市、姉・茶々、妹・江は織田信長の庇護を受けることとなりました。

 

本能寺の変で織田信長が死去すると、母である市は柴田勝家と再婚します。

 

しかし賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉によって柴田勝家と市は自害に追い込まれ、茶々、初、江は秀吉の庇護を受けることとなりました。

 

その後、初は京極高次と結婚し、京極高次亡き後は落飾「常高院」と名乗りました。

 

篤姫

篤姫江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した女性です。

 

江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室となり大奥に入りました。

 

しかし、結婚からわずか19ヶ月後の安政5(1858)7月6日、夫である徳川家定が亡くなってしまったため、篤姫は落飾「天璋院殿従三位敬順貞静大姉」とし「天璋院」と名乗りました。

 

④大奥において落飾は通例であった

江戸幕府第3代将軍・徳川家光の側室であるお万の方などいくつか例外はありますが、将軍が亡くなれば大奥にいるその将軍の正室や側室は落飾するのが一般的で、落飾し残りの余生を亡き将軍を思いながら過ごしていたとされています。

 

大奥に入れば親元に帰ることは許されていないため、将軍が亡くなり落飾した後、多くの女性が大奥から出て城内の二の丸、三の丸または桜田御用屋敷で暮らしていました。

 

しかし中には大奥に残り次期将軍の養母となった女性もいました。

 

出家について詳しく解説!

 

一方で出家も落飾と同じく世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入るとことを示す意味となっています。

 

落飾という言葉が身分の高い女性に使用されるのに対し、出家という言葉は身分に関わらず、また性別問わず使用される言葉です。

 

落飾と同様に剃髪を行い仏門に入るのが一般的です。

 

出家した有名な歴史人物

平清盛

平清盛は平安時代後期に活躍した人物です。

 

祖父の平正盛以来、平氏は栄え平清盛もわずか12歳で従五位下左兵衛佐に就任し、その後昇進を重ねていきました。

 

保元1(1156)に勃発した保元の乱では後白河天皇を勝利に導き、その後の平治の乱では源義朝を打ち破ります。

 

源義朝を打ち破ったため平氏に対抗する武士はいなくなり、平氏は全盛期を迎えました。

 

しかし、治承5(1181)熱病に倒れた平清盛は最期を悟り出家「浄海」と名乗り亡くなりました。

 

上杉謙信

上杉謙信戦国時代に活躍した越後国大名です。

 

上杉家に仕えていた長尾為景の四男として誕生し、31歳の時に上杉憲政の養子となり「上杉政虎」と改名しました。

 

山内上杉氏の家督となった後、室町幕府の重職・関東管領となり「上杉輝虎」と改名しました。

 

その後、武田信玄北条氏康織田信長といった戦国大名と合戦を繰り広げ、48歳で亡くなりました。

 

上杉謙信」という名前は出家名、つまり戒名とされています。

 

知っておきたい「還俗」について!

 

嫡男は家督を引き継ぐことができますが、家督を引き継げない兄弟たちは出家という選択肢を迫られることが日本史では多々あります。

 

しかし、家督を引き継ぐはずの嫡男がなんらかの原因で亡くなってしまった場合、仏門に入ったものの再び世俗に戻り、亡くなった嫡男の代わりに家督を引き継ぐということが多々ありました。

 

このように1度出家した者が再び世俗に戻る、在俗者、俗人に戻るということを「還俗」または「復飾」といいます。

 

還俗した有名な歴史人物

以仁王

以仁王は平安時代末期に活躍した皇族です。

 

後白河天皇の第三皇子として誕生したため出家天台座主最雲法親王の弟子となりましたが、応保2年(1162年)に最雲法親王が亡くなってしまったため以仁王は還俗しました。

 

学問や笛、詩歌に秀でていた以仁王は後白河天皇の後継者として有力視されますが、当時権勢を誇っていた平氏出身の異母弟である憲仁親王(後の高倉天皇)に皇位は継承されることとなりました。

 

その後、平氏に不満を抱いた以仁王は源氏とともに平氏討伐を掲げ挙兵しますが、平氏追討は失敗に終わり亡くなりました。

 

足利義教

足利義教は室町時代中期に活躍した人物です。

 

応永元年(1394年)室町幕府第3代将軍・足利義満の三男として誕生したため出家「義円」と名乗りました。

 

応永32年(1425年)室町幕府5代将軍の足利義量が急死。

 

そのため急遽、足利義教の兄で室町幕府第4代将軍を務めていた足利義持が引き続き政治を行いました。

 

しかし、足利義持も応永35年(1428年)病に倒れ、後継者を決めないままそのまま亡くなってしまいます。

 

将軍不在に陥ったため次期将軍は籤引きで決められることとなり、僧侶となっていた足利義教が運よく次期将軍となることとなりました。

 

そのため出家していた足利義教は還俗し、室町幕府6将軍となりました。

 

このような経緯から「籤引き将軍」と呼ばれています。

 

まとめ

 落飾とは高貴、身分の高い人が世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入ることを示す言葉。主に仏門に入る高貴な女性に対し使用された。

 出家とは世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入ることを示す言葉。出家という言葉は身分に関わらず、また性別問わず仏門に入る者に対し使用された。

 出家、落飾した者が再び在俗者、俗人に戻ることを還俗という。