江戸幕府の八代将軍吉宗が行った享保の改革。
その改革の中の一つに足高の制という制度がありました。
今回は、この『足高の制(たしだかのせい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
足高の制とは?
(徳川吉宗 出典:Wikipedia)
足高の制とは、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗によって導入された政策です。
彼が行った享保の改革の一環として実施されました。
足高の制は、役職に応じて不足する禄高(=給料)をプラスして支給する制度です。
これによって能力があるものの家柄が低いという理由で役職に就けることのできない人材も登用できることになりました。
しかも役職を辞めた場合にはあとから足された禄高は返上するという決まりになっていたので、幕府としても経済面で合理的に人材登用をすることができたのです。
江戸時代の身分制度と役職
①江戸時代の身分制度
江戸時代というと士農工商という言葉に代表される身分制度が一番に思いつくでしょう。
しかし、完全にこの4つに分類されていただけではなく、4つの身分の中にも上下関係はありました。
例えば、武士の中にも家老や奉行といった上級武士もいれば、その日の生活にも困るような下級武士もいます。そして、農民の中にも地域の有力者である庄屋もいれば、自分の土地を持たない水呑百姓もいます。
武士階級内部の身分についても、その家の役職や仕事内容、給料というものは代々世襲されるものと決まっていました。
もちろん優秀な人物が出て、殿様に気に入られたりすると役職や収入が上がることはありましたが、戦国時代に比べればそのような機会はほとんどなく、身分が硬直した状況にありました。
一方何かしら失敗をすれば、その責任を取ってお家の取りつぶし、もしくは収入が下がってしまう可能性もありました。
そんな世の中でしたので、武士たちの意識としてはいかに失敗をせず問題なく過ごし、親から引き継いだ役職と給料を自分の子どもに引き継ぐのか、ということに意識がいきます。
こうして前例踏襲、事なかれ主義が蔓延していきます。
しかし、それでは社会が停滞したときに改革改善を行うことができませんでした。
②身分相応の生活
現在であれば収入に応じた生活を行うというのが普通でしょう。
しかし、江戸時代においては「身分に応じた生活」というものが求められました。
例えば「旅先でどんな宿に泊まるのか」ということも大名や武士、町民によってランクが違ったのです。
また同じ大名の立場でも石高が何万石かによって参勤交代の際に泊まる宿のランクやお供の人数も決められていました。
今年は不作で収入が少ない、城の改修をしたからお金が少ない、といった場合でも家格に応じた生活費が必要になったのです。
能力が高い人材を、その家柄よりも高い役職に就けるときに問題になったのはこの点でした。
人材を抜擢したとしても支障が生じるケースがあったのです。
しかし固定化された身分制度下においては一度上げた給料は下げることが難しいため、幕府としては財政面での負担がネックになっていました。
そこで役職にあるだけの間、という限定的な条件で禄高を上げることにしたのです。
これが足高の制になります。
抜擢された人物
①大岡忠相
(大岡忠相 出典:Wikipedia)
テレビの時代劇大岡越前の主人公としても有名な大岡忠相が足高の制を説明する際によく出てくる人物です。
大岡家はもともと徳川家の直接の家来である旗本の家柄でした。
忠相は地震復旧の奉行など幕府の官僚として働いていましたが、33歳のときに伊勢の山田奉行に就任します。
当時の将軍は徳川家宣。のちに八代将軍となる吉宗は紀州藩主に就任しており、和歌山と伊勢が近かったのでこのときから二人の間に関係があったのではないか、と考えられることもありますが、のちに作られた話であるという説もあります。
またその後吉宗が将軍に就任したあと、忠相は江戸町奉行に就任しますが、これも大抜擢というわけではなく、順当な出世コースを歩んでいたと言えるでしょう。
町奉行として忠相は町火消の設置や小石川養生所の設立など享保の改革で有名な政策を実施します。
改革そのものは吉宗の功績とされていますが、将軍吉宗の実務部隊として忠相は活躍しました。
その後忠相は59歳のときに寺社奉行に就任し、公事方御定書にも関わります。
しかし、この寺社奉行というのは大名しかなれない役職でした。
通常大名というのは1万石以上の徳川氏の家来を指します。その意味では藩主も旗本も禄高が違うだけで、立場としては徳川家の家来として一緒なのです。
忠相は寺社奉行に就任するにあたり石高が足りなかったので足高の制によって2000石が加増されました。
ただ身分は大名ではなく旗本だったために、同じ役職の人から意地悪をされたこともあったようです。
本来城内に詰所があるのですがそこを使うことができず、寺社奉行でありながら固定の詰所がない状態で数年過ごしました。
やがて吉宗がそれを知り、彼のための詰所を用意しました。
また、その後足高分を正式な加増として認め、大名として忠相を取りたてました。忠相の藩は明治まで残りました。
②田中丘隅
名主の次男として生まれた田中丘隅は大岡忠相に抜擢された農政家・経世家です。
これまで自分が学び経験したことを本にまとめた丘隅は62歳のときに将軍に謁見する機会を得ます。
このときのやりとりから幕府の役人として採用され各地で治水工事を行いました。
特に富士山の噴火があったのち、たびたび氾濫を起こしていた酒匂川の治水工事が有名です。
これまでよりも頑丈な堤防を築くことで丘隅は酒匂川の補修を行い、完成後は氾濫が起きなくなりました。
この功績により丘隅は3万石の地域の支配を任されます。
名主とは言え、農民出身から幕府役人に取り立てられ、功績に応じて役職や給料が上がっていったのは足高の制があったからです。
足高の制のその後
足高によって増えた分の禄高については、役職ボーナスのようなものですので、本来は役職に就いている間だけのものでした。
しかし、一度増えた収入が減ってしまうのはいつの時代もあまりいい気分の話ではありません。
大岡忠相のように足高分がのちに正式に加増されたケースなど、結果的には加増分も含めた禄高がその家の禄高と認められ、子孫にまで引き継がれていくケースも多かったようです。
また吉宗以降の将軍の治世において、足高の制が活用された話や、下級武士や民間から人材を抜擢した話もあまり聞きません。
実は吉宗以前からも足高の制と同じような制度はありました。
ルール化されていなかったものを吉宗はルール化したというだけ、という見方もできます。
また、5代将軍綱吉以降、幕府財政は悪化していました。
(徳川綱吉 出典:Wikipedia)
吉宗が将軍に就任したときは幕府財政の立て直しが急務であったために、そのための改革する必要性があり、「有能な人材を抜擢することを正当化するために足高の制を行った」という見方もできるでしょう。
いつの時代もいくら能力があっても、いきなり昇進をする人や給料があがる人が出てくると、ひがみややっかみがつきものです。
それを少しでも抑えるために制度として明確にすることで、享保の改革を行っていったという考え方もできます。
まとめ
✔ 足高の制とは役職に応じて足りない禄高を役料として足すこと。
✔ これにより能力はあるものの、家格が低いという理由で役職に就けない人材を登用することができるようになった。
✔ 役職に就いている期間だけのものなので、幕府財政的にも影響が少なかった。
✔ 大岡忠相や田中丘隅など享保の改革で活躍した人物が輩出された。
✔ 本来は世襲されないが、結果的に世襲される禄高になることが多かった。