第二次世界大戦で、日本はドイツやイタリアとともにファシズム陣営に属し、イギリス、フランス、アメリカをはじめとする連合国と対立しました。

 

この対立の構図が生まれるきっかけとなったのが、第二次世界大戦直前に日本とドイツの間で締結された日独防共協定です。

 

今回は、この『日独防共協定(にちどくぼうきょうきょうてい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日独防共協定とは?

(協定調印の様子 出典:Wikipedia)

 

 

日独防共協定とは、1936年(昭和11年)に日本とドイツの間で締結された反共産主義の協定のことです。

 

当時、ヨーロッパではソ連共産党を中心としたコミンテルン(国際的な共産主義組織)の活動が活発化していました。

 

日独はこれに対抗するために、日独防共協定で情報交換と協力を行うことを定めました。

 

この協定には後にイタリアが加わり、日独伊三国防共協定となり、そしてさらに軍事同盟に発展し、日独伊三国同盟が誕生しました。

 

これにより、日本・ドイツ・イタリアというファシズム陣営が形成されました。

 

日独防共協定が結ばれた背景

①そもそも「防共」とは何か?

「防共」とは、自国内での共産主義革命を防ぐため、共産党の拡大を抑えこむことを意味しています。

 

第一次世界大戦中にロシア革命を成功させたレーニン率いるソ連共産党を中心に、各国の共産党が共産主義革命を目指して、1919年に国際的な連絡組織コミンテルン(第三インターナショナル)を結成していました。

 

 

そこで、各国の共産主義者は、ソ連共産党の指示に従って団結し、緊密な情報交換や連携を行っていました。

 

1920年代の世界恐慌期における各国の政治闘争を経て、共産主義の広まりに限界を感じていたコミンテルンは、1930年代半ばになると反ファシズムを掲げて、これまで対立していた政党と統一戦線を実現する方向へと戦略を転換させました。

 

フランスやスペインで反ファシズムの人民戦線政府が誕生したのはその影響です。

 

その一方で、各国の共産党へのソ連の影響力はますます大きくなり、ソ連以外でもスターリン崇拝が強まるようになりました。

 

結果的には、各国の共産党は、ソ連の外局のような役割を担うことになりました。

 

こうしたコミンテルンの活動に対して、何らかの対策を打たなければ、自国内にソ連の傀儡(かいらい)政権ができてしまうおそれがありました。

 

そこで、欧米各国や日本は、自国の治安維持のため、コミンテルンの活動への対処策を考えなければいけませんでした。

 

②ドイツの状況

ドイツでは1920年代後半、ヒトラー率いるナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が急速に勢力を伸ばし、1933年3月に総選挙で勝利して政権をとりました。

 

首相となったヒトラーは、議会で全権委任法を成立させ、独裁体制を確立しました。

 

同年10月には、軍事的な平等が守られていないとして、国際連盟を脱退します。こうして国際社会の中で孤立化の道を歩み始めます。

 

当時、ナチ党の外交政策を担っていたのは、リッベントロップという人物です。

 

 

(リッベントロップ 出典:Wikipedia)

 

 

リッベントロップは1932年にナチ党に入党し、ヒトラーの外交顧問として働きました。

 

ちょうど日独防共協定の交渉が始まったのと同じ時期の1935年6月に、リッベントロップは英独海軍協定の締結に尽力しました。

 

ところが、1936年8月にイギリス大使となったリッベントロップは、イギリス側から高圧的な態度を嫌われてしまい、イギリスとの関係改善に失敗してしまいます。

 

そんな状況下で交渉がまとまってきたのが、日独防共協定だったのです。

 

リッベントロップにとっては、対イギリス政策の失敗を挽回するチャンスでした。

 

③日本の状況

日本は1933年に満州事変に対するリットン調査団の報告書に反発して、国際連盟を脱退してから、国際社会の中で孤立状態にありました。

 

 

この状態を是正するため、日本はヨーロッパ各国との関係改善を模索します。

 

そこで日本が目を付けたのが、防共協定という発想でした。

 

ヨーロッパで勢力を伸ばしている共産主義への対抗という名目があれば、ヨーロッパ各国と一致できると考えたのです。

 

日本はまず伝手があったドイツと防共協定を締結することを目指しました。

 

日独防共協定の内容

(日独防共協定の日本語原本 出典:Wikipedia

①協定成立の経緯

日独防共協定の締結を目指す交渉は、1935年5月~6月ごろ、参謀本部の要請により、駐独陸軍武官・大島浩がフリードリヒ・ハックという政治ブローカーを通じて、非公式にナチ党の外交部長だったリッベントロップに接触したことから始まります。

 

 

(大島浩駐独武官 出典:Wikipedia)

 

 

当時、リッベントロップは、外務省とは別にナチ党の外交政策を決めるリッベントロップ機関を主宰していました。

 

この交渉が進み、協定原案のめどが立つと、1936年に公式の政府間交渉に回されました。

 

広田弘毅内閣の有田八郎外相が駐独大使・武者小路公共に命じて、リッベントロップと交渉させ、そして最終的に1936年11月25日に武者小路とリッベントロップとの間で、協定が調印されました。

 

②協定本文と秘密付属協定

日独防共協定の正式名称は、「共産インターナショナルに対する協定」と言います。

 

2つの条項から成る協定本文に、秘密付属協定が付けられていました。

 

まず、協定本文では、次の2点が定められました。

  • コミンテルンの活動に関して日独が相互に情報交換し、必要な防衛措置について協議・協力すること(第1条)。
  • コミンテルンの破壊工作によって国内の安寧が脅かされている第三国に対して、この協定が目指すような防衛措置をとるように促したり、この協定に参加するように勧誘したりすること(第2条)。

一目見て分かるように漠然とした内容しか定めていません。日独の本当の狙いは、この本文に付けられた秘密付属協定に書かれています。

 

その秘密付属協定の内容は次の通りです。

  • 日独のどちらかがソ連からの攻撃や脅威を受けた場合、もう一方の国はソ連の負担を軽くするような措置を一切とらないこと。
  • 日独相互の同意なしに、この協定の精神に反するような条約をソ連と締結しないこと。

これを見れば、日独防共協定が明らかにソ連を仮想敵国にしていることが分かります。

 

この秘密付属協定は、大島浩とリッベントロップの間で作られました。

 

日独防共協定のその後

 

日本政府は当初、日独防共協定を拡大して、他のヨーロッパ諸国、とりわけイギリスにも加入を求める方針でした。

 

これが成功すれば、1933年の国際連盟脱退以降に生じていた国際社会における孤立状態を脱却できると考えたのです。

 

ところが、イギリスとの交渉はうまく進みませんでした。

 

その代わりに日独防共協定に加わったのがイタリアです。

 

イタリアは1937年11月6日、協定本文の原署名国として加入。これにより、日独防共協定から日独伊三国防共協定へと発展しました。

 

1940年にはこの協定が軍事同盟に発展し、日独伊三国同盟が結成されました。

 

 

ここにいたって、日本はファシズム陣営の一国となりました。

 

まとめ

 日独防共協定とは、1936年11月25日に日本とドイツの間で締結された反共産主義の協定のこと。

 当時、ヨーロッパではソ連共産党を中心としたコミンテルン(国際的な共産主義組織)の活動が活発化していた。

 日独はコミンテルンの活動に対抗するために、この協定で情報交換と協力を行うことを定めた。

 この協定には後にイタリアが加わり、日独伊三国防共協定となった。

 この協定はさらに軍事同盟に発展し、日独伊三国同盟が誕生した。

 これにより、日本・ドイツ・イタリアというファシズム陣営が形成された。




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