江戸時代までの日本では、武力闘争の主な担い手は、刀を持つことを許された士族たちでした。
しかし、士農工商の区別がなくなった明治時代には、新たに近代的な軍隊を創ることが目指されていきます。
明治政府は徴兵告諭と徴兵令を相次いで出し、国民に兵役を義務付けました。
これによって、二十歳以上の男性は、特別な条件を満たさない限り、一定期間兵役に服さなければならなくなりました。
今回は、そんな『徴兵告諭と徴兵令との違い』をふまえながら、明治の徴兵制について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
徴兵告諭と徴兵令の違い
徴兵告諭は1872年(明治5年)、そしてその翌年、1873年(明治6年)に公布されたのが徴兵令です。
徴兵令は徴兵告諭に基づいた内容になっているので、基本的な理念は同じものだと考えていいです。
しかし異なるのは、徴兵告諭は徴兵制を国民に宣言・予告したものであって、実際に法令として徴兵制を義務付けたのが徴兵令だということです。
そのため、徴兵告諭が先で、徴兵令が後、という順序になります。
徴兵制の義務化が実際に始まったのは徴兵令の公布によってである、ということに留意しておきましょう。
徴兵告諭について詳しく
(1872年頃の近衛兵 出典:Wikipedia)
1872(明治5)年に出された徴兵告諭は、国民に向けて徴兵制の必要性を宣言したものです。
いわば、いずれ徴兵制を実施しますよという予告です。
徴兵告諭について、誰がつくったのか、どのような内容だったのかを見ていきましょう。
①日本の軍隊制度の創設者
近代日本の軍隊制度は、長州藩出身の大村益次郎と山県有朋の二人によって整えられました。
明治維新以来、大村益次郎の主導のもと、フランスやイギリスの軍隊制度にならった兵制改革が着々と進められていきます。
その改革の一環として、大村は国民を兵として徴集する徴兵制を主張します。
しかし、大村は1869(明治2)年に暗殺され、その後をついだ山県有朋が、それ以降の軍隊制度の整備を担っていきました。
徴兵告諭と徴兵令をまとめていったのも、大村益次郎の理念を受け継いだ山県有朋でした。
②国民皆兵の理念
徴兵告諭が最も基本的な理念としたのは、身分にかかわらず国民すべてが兵役に服するという、国民皆兵の理念です。
徴兵告諭は、「全国、四民、男児二十歳に至る者は、尽(ことごと)く兵籍に編入し」と、二十歳以上のすべての男子に兵役を課すことを宣言しました。
「四民」とは、江戸時代までの士農工商の四つの身分制のことを指しますが、このときは既に四民は華族・士族・平民の3つの身分に編成されなおしていました。
いずれにしても、すべての身分の人が徴兵制の対象になるということを示しています。
③「血税」としての兵役
徴兵告諭は、その中に書かれた「血税」という言葉のために、国民に動揺をもたらします。
徴兵告諭の中にこのような一節があります。
「西人之を称して血税と云う。其の生血を以て、国に報ずるの謂なり。」(西洋の人は兵役のことを「血税」と言う。自分の血で国に報いることを「血税」と言うのだ。)
「血税」という言葉は、フランス語で「兵役の義務」をあらわす言葉を直訳してあらわしたものです。
しかし「血税」という言葉になじみがなかった明治の人々は驚きました。国への税として本当に自分の血を取られるのではないかと考えたのです。
中には、国民からとった血を葡萄酒にするとか、衣服を染めるための原料にするとか、今から考えればばかばかしいような流言が飛び交ったといいます。
しかし、当時の人々にとっては深刻な問題だったのでしょう。
そうした思い違いに端を発して、徴兵告諭が出されたあと、全国各地で、徴兵反対を掲げた反乱がおこりました。
それらの徴兵反対の暴動のことを、血税一揆と呼びます。
徴兵令について詳しく
(陸軍省が1873年に要請した人数 出典:Wikipedia)
徴兵告諭の翌年にあたる1873(明治6)年、政府は徴兵告諭に基づいて徴兵令を公布しました。
いよいよ徴兵制が義務として実施されることになったのです。
徴兵令が目指した制度も、徴兵告諭が説いた国民皆兵を原則とする徴兵制度です。
徴兵令ではその実施のしかたやルールが細かく定められました。その要点を見ていきましょう。
①兵役の義務化
徴兵令公布によって、全国の満二十歳以上の男子に三年間の兵役が義務づけられました。
徴兵検査を経て徴兵された国民は、全国各地に置かれた鎮台という部隊に編成され、そこで訓練をすると定められました。
鎮台は東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の六鎮台に分かれていました。
②徴兵免除の条件
徴兵令は基本的に二十歳以上の男子すべてを対象としましたが、当初はいくつかの免除規定が存在していました。
まず、徴兵制には体格の制限がありました。身長が154.5㎝未満の者は、望んだとしても兵役につくことはできませんでした。
また、官吏、一家の主人(戸主)や相続人など、特定の条件を持つ人は、兵役が免除されました。
また、重要なのは、一定のお金を支払って免除を願い出ることもできたことです。
「代人料」として270円以上支払えば、上記の条件を満たさなくても、兵役を免れることができました。
ただし、270円は今の値段でいうと、800万円以上の大金です。これを払えた国民は、華族など一部の裕福層に限られたと言っていいでしょう。
徴兵告諭&徴兵令の影響とその後
(1900年 大日本帝国陸軍の兵士 出典:Wikipedia)
①近代的軍隊制度の完成
徴兵令の公布によって、日本の近代的軍隊制度が完成しました。
当初頻発していた血税一揆も次第に下火になります。
明治の時代が明けてもまだ貧しかった農村部などでは、兵役もひとつの生活の糧として捉えられ、中には3年間の兵役義務を終えても自ら兵役を志願する人々もいました。
②徴兵制度の問題点
一方、徴兵制によって困った状況に置かれた人々もいました。
まず、農村部では、働き手である若者を強制的に軍隊にとられてしまうことで、労働力不足が発生しました。
そのような農村部の不満も、徴兵令公布前後の血税一揆の形で噴出していきます。
また、国民皆兵によって自分たちの特権をとられてしまったのが、「四民」で言うところの士族たちです。それまで兵士として戦うのは主に士族の役目でした。
しかし、明治維新後の四民平等や廃刀令によって、士族の特権は次第に失われつつありました。
そのような中で既に高まっていた士族たちの不満が、徴兵制度によってさらに大きくなっていきます。
のちに明治10年の西郷隆盛の西南戦争など、各地で不平士族の反乱が相次ぎますが、そうした不平士族たちの反乱の背景の一つとして、徴兵制の実施の問題もあったのです。
まとめ
✔ 徴兵告諭(明治5年)は徴兵制度の宣言・予告。徴兵令(明治6年)は徴兵制度を義務づけた法令。
✔ 徴兵告諭では国民皆兵の理念が説かれたが、「血税」という言葉が国民の誤解を呼び、全国で血税一揆が発生した。
✔ 徴兵令は、徴兵告諭に基づいて、満二十歳以上の男子に3年間の兵役を義務付けたが、戸主・相続人や代人料を治めた人には兵役免除もあった。
✔ 徴兵令によって近代的な軍隊制度が完成した一方、労働力をとられた農民やそれまでの特権を失った士族たちの不満は高まった。