欧米各国や日本は1929~1933年にかけて、これまで経験したことがない規模の不況「世界恐慌」に直面します。
この不況は金融、農業、工業、通貨体制に至るまでさまざまな分野に波及し、長期間にわたって影響を与えました。
経済理論さえも変わってしまったほどです。
今回は、そんな『世界恐慌(せかいきょうこう)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
世界恐慌とは?
(ニューヨークの銀行に集まった群衆 出典:Wikipedia)
世界恐慌とは、1929年10月24日に発生したニューヨーク株式市場の株価大暴落に始まる世界規模の大不況のことです。
影響はアメリカ国内だけでなく、西ヨーロッパ各国や日本にまで及びました。
アメリカはニューディール政策を採用し、政府が積極的に経済に介入することで、不況を乗り切ろうとしました。
その一方で、ヨーロッパ各国は植民地支配を強化し、ブロック経済を進めるようになりました。これが第二次世界大戦の火種となります。
日本ではこれ以前から金融恐慌が発生していましたが、満州事変による軍需景気のため、いち早く恐慌から抜け出しました。
世界恐慌の原因
①1920年代におけるアメリカの過剰投資
世界恐慌の原因は、1920年代におけるアメリカの過剰投資にあると言われています。
第一次世界大戦後、アメリカの資本が西ヨーロッパや中南米に大量に投資されたことで、株価や地価が実態からかけ離れて値上がりしていました。
また、アメリカ国内でも、自動車、家電、建築、農業などの成長産業への投資が盛んに行われた結果、生産過剰の状態に陥っていました。
これはいわゆる「バブル経済」と言われるものです。しかし、このような状況は、表面的には経済が発展しているように見えたため、特に対策が行われることはありませんでした。
そうした見かけ上の好況の中でも、アメリカ国内の失業率は常に5%以上になっていました。
また、農業、綿紡績業、皮革業、石炭業、造船業などの不況産業もありました。
1920年代の時点ですでにアメリカの産業は構造的な問題を抱えていたのです。
②アメリカと西ヨーロッパの格差の拡大
また、世界経済の面から見れば、アメリカと西ヨーロッパの各国との格差が広がったことも、世界恐慌を引き起こす要因の一つでした。
1920年代には第一次世界大戦の痛手から立ち直れない西ヨーロッパに対して、アメリカは西ヨーロッパの復興のために大量の投資を行いました。
その結果、アメリカは他国に貸すお金が増え、他国から借りるお金を大きく上回ったため、債務国から世界最大の債権国になりました。
逆に、第一次世界大戦に負けたドイツは、資本輸出国から資本輸入国に転じ、多額の借金を抱えてしまいます。
フランスも長期でお金を貸す余力がなくなり、短期中心の資本輸出国になりました。
また、第一次世界大戦に対するドイツの賠償金の支払いは、自国だけですぐに支払う余裕がなかったため、アメリカから借りたお金を使いました。
イギリスやフランスはこうして支払われた賠償金で、戦争中にアメリカから借りていたお金を返済しました。
こうしてアメリカがドイツに貸したお金がイギリスやフランスを介して戻ってくるという循環構造ができあがりました。
これによって、1920年代のアメリカの好景気は維持されました。
③世界恐慌の発生
(ダウ平均株価の指数を表すグラフ 出典:Wikipedia)
このような状況の中で、1929年10月24日、ニューヨーク株式市場で株価が一斉に大暴落しました。
この日が木曜日であったため、のちに「暗黒の木曜日」と呼ばれるようになります。以後2カ月間で、株価は平均42%急落しました。
この株価大暴落が起こったのは、アメリカの資本が過剰投資されていたことが表面化し、投資家が次々と株式を売り払ったことにより、バブルが崩壊したためです。
1920年代に続けられた過剰投資は国内外の広い範囲に及んでいたので、株価の暴落による不況は世界中に連鎖し、アメリカ国内でもさまざまな産業に波及しました。
世界恐慌の日本への影響
(1927年に起こった金融恐慌「取り付け騒ぎの様子」 出典:Wikipedia)
日本では1927年にすでに金融恐慌が起きていました。
これに1929年の世界恐慌が重なったことで、不況は深刻化します。この二つの恐慌は合わせて「昭和恐慌」とも呼ばれます。
1927年の金融恐慌の原因は、関東大震災後に乱発された震災手形の処理が進んでいないことが表面化したことにありました。
特に、台湾銀行が大手商事会社の鈴木商店に対して3億5000万円もの不良債権をもっていることが明らかになったことで、銀行経営に対する不安が急速に広がり、銀行での取り付け騒ぎに発展しました。
これによるパニックが2カ月間続きましたが、政府が支払い猶予(モラトリアム)と日本銀行による特別救済措置を行ったため、パニックは沈静化しました。
ところが、1929年に世界恐慌が起こると、日本もこれに巻き込まれてしまいます。
ちょうど日本は金本位制度に復帰するために極端なデフレ政策を取っていたため、日本経済は深刻な不況に見舞われました。
企業の倒産や銀行の破綻が相次ぎ、失業者が激増。特に生糸や綿糸など農産物価格が大暴落し、農村経済に大打撃を与えました。
政府が混乱している隙を突いて、軍部が台頭するようになると、1931年に満州事変が起きてしまいます。
皮肉なことに、この満州事変による軍需景気によって、日本は恐慌から抜け出すことになります。
それ以降の日本は戦時体制に移行していきました。
世界恐慌の各国への影響
次に、欧米各国への影響とそれに対する対応を見ていきます。
①アメリカ
アメリカでは、特に建築、鉄鋼、自動車といった主力産業が大打撃を受け、企業の倒産や工場の閉鎖が相次ぎました。
これによって失業者が激増し、失業率も跳ね上がりました。
また、銀行への信用も低下し、ニューヨークの大手銀行バンク・オブ・USが倒産すると、事態はいっそう深刻になりました。
当時のアメリカ大統領フーバーは、最初は楽観的な見方をしていて政府の経済介入には消極的でした。
(ハーバート・フーヴァー 出典:Wikipedia)
けれども、景気が悪化すると復興金融公社設立や失業救済事業など積極的な政策に着手します。
また、アメリカからお金を借りていた西ヨーロッパ各国に対しては、1年間の支払い猶予をうたったフーバー・モラトリアムを宣言します。
ところが、こうした政策でも恐慌が収まらなかったため、1932年の選挙でフーバーは敗北し、フランクリン・ルーズヴェルト大統領が誕生します。
(フランクリン・ルーズヴェルト 出典:Wikipedia)
ルーズヴェルト大統領は1933年からニューディール政策と呼ばれる一連の経済政策を行います。
この政策では、国内経済の再建を最優先課題として、政府が積極的に経済介入する方針が採用されていました。
具体的には、金本位制の廃止、管理通貨制度の導入、銀行の救済のほか、全国産業復興法、農業調整法、労働者保護を定めたワグナー法、社会保障法などの制定を行いました。
また、公共事業の一環としてテネシー川流域を開発する公社TVAを設立しました。
このような政策の背景には、イギリスの経済学者ケインズの思想がありました。
ケインズは不況と失業の原因を解明し、政府が積極的に経済介入する根拠となる修正資本主義という考え方を提唱していました。
ニューディール政策はある程度成果を上げましたが、1937年になると再び景気が悪化しました。
(政策により一時的に活気づいたニューヨーク 出典:Wikipedia)
これ以降は、第二次世界大戦に向けて戦時体制に移行していきます。
②イギリスほか
世界恐慌の影響は、すぐに西ヨーロッパの各国にも及びました。
アメリカと同様に、西ヨーロッパでも企業の倒産や工場の閉鎖、失業者の増加が起こりました。
そうした中で、アメリカをはじめとする多くの国が、関税を引き上げ、輸入制限をかけ始めます。このような対策をとった国は、1931年内には約60カ国に及びました。
イギリスやフランスなど西ヨーロッパの国々は、これに対応するためにそれぞれ保護国や植民地との間で排他的な経済圏を作ります。これがブロック経済と呼ばれるものです。
自国の経済圏の外からの輸入に対して高い関税をかけることで、自国の産業を守ることを目指しました。
このようなブロック経済は、1932年のオタワ協定によって、イギリスがカナダ、オーストラリアとスターリング・ブロック(ポンド・ブロック)という経済圏を打ち立てたことから始まりました。
イギリスの他にも、フランスがフラン・ブロック、ドイツがマルク・ブロックを打ち立てました。
なお、スターリング・ブロックにはイギリス連邦特恵制度が適用されました。
これはイギリスがカナダやオーストラリアから原材料や食料などを輸入するときには低関税または無税として、逆にカナダやオーストラリアがイギリスから工業製品を輸入するときに低関税にする、というイギリスにとって非常に都合が良いものでした。
まとめ
✔ 世界恐慌とは、1929年10月24日に発生したニューヨーク株式市場の株価大暴落に始まる世界規模の大不況のこと。
✔ その影響はアメリカ国内だけでなく、西ヨーロッパ各国や日本にまで及んだ。
✔ アメリカはニューディール政策を採用し、政府が積極的に経済に介入することで、不況を乗り切ろうとした。
✔ 他方、ヨーロッパ各国は植民地支配を強化し、ブロック経済を推し進めた。
✔ 日本は満州事変による軍需景気のため、いち早く恐慌から抜け出した。