日本人にとって、正月に神社で初もうでに参加し、お盆にお寺に行ってお墓参りをして、さらには年末にお寺で除夜の鐘をつくというのは決して珍しいことではありません。
といっても、江戸より以前は神社と寺院は同居していることが多かったのです。
神社と寺院をはっきりと分けたのは明治時代初めに打ち出された『神仏分離令(しんぶつぶんりれい)』でした。
今回は、そんな神仏分離令が出された背景・経過・結果について、わかりやすく解説していきます。
目次
神仏分離令とは?
神仏分離令とは、神社から仏教色を無くするため、明治政府が1868年に出した一連の法律のことです。
これにより、政府は神道(しんとう)を国教とすることを目指しました。
神仏分離令が出された背景と目的
(日光東照宮。鳥居と五重塔 出典:Wikipedia)
①江戸時代以前の神仏習合
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、神と仏は同じものであるとして神道と仏教を調和させる考え方のことです。
奈良時代には神社内に神宮寺が作られ、平安時代には日本の神と仏教の仏をそれぞれ結びつける本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が唱えられました。
これにより神社に仏像を置いたり、寺に鳥居を立てたりしていました。
また、そのほかにも神前で僧侶がお経を読む(読経)を行ったりもしていました。
②国学の影響
江戸時代の中ころ以降には、国学と呼ばれる学問が盛んになります。
荷田春満・賀茂真淵・本居宣長らの国学者は仏教や儒教が影響を持つ以前の日本の姿を古典の研究から明らかにしようとしました。
国学者らは儒教や仏教を排除した純粋な日本を取り戻すべきだと主張し始めました。
これが、神仏分離令の目的となります。
③平田篤胤の影響
(平田篤胤像 出典:Wikipedia)
平田は儒教・仏教をまじえない日本固有の古代の神の道を説く復古神道を提唱しました。
神々の子孫である天皇を絶対の存在とし、その天皇が率いる日本が他の国や文明より優れていると主張しました。
この考えは幕末の志士たちに強い影響を与え、幕末の尊王攘夷運動や明治時代初期の宗教政策にも大きな影響を与えました。
神仏分離令の発令と経過
(神仏分離令後の廃仏毀釈の運動で破壊された石仏 出典:Wikipedia)
①神仏分離令の発布
新政府が発足すると、復古神道の影響を受けた国学者や神道家が明治政府に登用されました。
彼らを中心に次々と明治初期の宗教政策がスタートします。
手始めに神祇官の復活を行いました。
特に最も厳しいものは神仏判然令といい、仏像を神体としたり神社に仏具をおくことを禁止したりしたものです。
これにより、以前は一緒にされてきた神道と仏教は急速に分離されていきました。
②廃仏毀釈
廃仏毀釈とは、神仏分離令などの実施によっておこった寺院や仏像・仏具などの破壊運動のことです。
全国的な寺院に対する破壊行為や藩による寺領の没収などにより仏教は大打撃を受けました。
神道分離令の目的は神と仏を分離することで仏を破壊することではありませんでしたが、極端な破壊行為につながった地域もありました。
③廃仏毀釈の爪痕
奈良の興福寺は廃仏毀釈で大ダメージを負った寺院の一つです。
多くの仏像や建物が破壊され、三重塔や五重塔が250円で売りに出されたり、寺の壁が壊されて奈良公園の一部にされてしまったりしました。
寺には住む者がいなくなり荒れ果てました。
④大教宣布の詔
1870年、政府は神祇官に宣教使を設置し大教宣布の詔(たいきょうせんぷのみことのり)を発令しました。
詔では神道を盛んにするべきであり、そのために宣教使に布教を命じたとあります。
これによって神道の国教化を目指しましたが効果は上がりませんでした。
神仏分離令の結果
①大教院による大教宣布の続行
1872年、神祇省(神祇官が格下げされたもの)が廃止され教部省がつくられました。
教部省は大教宣布を行うことをあきらめてはいませんでした。
教部省は大教院・中教院・小教院をつくり、神仏合同の不況を計画しました。
しかし、神社優位の傾向に対する仏教側の反発や国が宗教をコントロールすることに対する反発が起きました。
②仏教の立て直し
(島地黙雷 出典:Wikipedia)
廃仏毀釈の運動を受けて仏教は強く反省を迫られました。
廃仏毀釈の流れに立ち向かい、神道国教化に抵抗したのが本願寺派の僧侶の島地黙雷です。
ヨーロッパにも留学した島地は信教の自由を訴えます。
また、所属していた浄土真宗の改革も推進しました。
彼の運動は明治政府による大教宣布(神道国教化政策)を挫折させ、仏教に力を取り戻させました。
③大教院・教部省の廃止
1875年に大教院、1877年に教部省が相次いで廃止されました。
これは島地黙雷ら仏教側からの猛反対があったからです。
政府はついに神道国教化をあきらめました。
④国家神道の成立
明治政府によって国教とされた神道のことを国家神道または神社神道とよびます。
神仏分離令で神と仏が明確に分離された後、多くの神社は国の管理下に置かれ、天皇家の祖先神とされる伊勢新宮を頂点に全国各地の神社がランク付けされました。
この国家神道は日本が第二次世界大戦に敗北するまで続きました。
日本が占領下におかれたとき、GHQが出した神道指令によって政治と神道が分離され、国家神道は解体されました。
⑤教派神道
教派神道とは、1882年以降に国が公認した神道13派の宗教団体のことです。
江戸時代にすでに開かれていた黒住教・天理教・禊教(みそぎきょう)・金光教に加えて扶桑教など9つの宗派が公認されました。
教祖・経典をもち、現実世界における幸福などが説かれました。
⑥破壊された寺院や仏像の保護
(東洋美術史家・アーネスト・フェノロサ)
1878年、東京大学から招かれた美術研究家がアメリカ人のフェノロサでした。
彼は寺院や仏像が破壊されている現状にショックを受けます。
現在、海外に流出している日本美術品の多くはこの時期に外国商人に売却されたものです。
フェノロサは事あるごとに日本人に対して、日本文化のすばらしさや日本美術の魅力を説きました。
彼の同志となった岡倉天心とともに日本画家の指導・育成に力を尽くしました。
(岡倉 天心 出典:Wikipedia)
こうして、美術としての仏教も徐々に保護されるようになり、廃仏毀釈からの復興を果たすことになります。
まとめ
✔ 神仏分離令とは、明治政府が1868年に出した神道と仏教を分離する命令のこと。
✔ 江戸時代以前は神仏習合が一般的。
✔ 国学者、特に平田篤胤の復古神道は幕末・維新の志士に大きな影響を与えた。
✔ 神仏分離令以後、廃仏毀釈が行われた。
✔ 政府は大教宣布の詔を出して神道の国教化をはかった。
✔ 僧侶島地黙雷らの抵抗もあり、神道国教化は失敗した。
✔ 廃仏毀釈で失われた仏像や日本美術はフェノロサらの活動で見直され始めた