明治時代の中頃、一部の政府高官による政治の独占を批判する自由民権運動が高まりました。
このころ、政府の力を強めるべきだとする藩閥政府と、憲法に基づいた政治を主張する民権派が激しく衝突していました。
今回は、政府と民権派の最後の対立となった『大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)』についてわかりやすく解説します。
目次
大同団結運動とは
大同団結運動とは、1886年から89年におきた民権派の最後の反政府統一運動のことです。
きっかけ、旧自由党員の集会で星亨が「国会開設に備えて民権派は団結すべきだ」と訴えたことでした。
星亨らは明治維新でも活躍した後藤象二郎を盟主に担ぎ上げて運動を盛り上げました。
しかし、政府が保安条例を制定して弾圧したり、後藤が黒田内閣に引き抜かれたりしたことなどが原因で、89年には運動が崩壊しました。
大同団結運動までのあらすじ
①明治十四年の政変
1881年、開拓使官有物払下事件を発端として明治十四年の政変が起こります。この事件で二つの重要事項が決まりました。
一つは、参議の大隈重信をやめさせること。もう一つは10年後の国会開設を約束する国会開設の勅諭を出すことでした。
②政党の結成
薩長出身者によって固められた藩閥政府に対して、自由民権を主張する民権派は二つの政党のもとに集まりました。
板垣退助を中心とする自由党と大隈重信を中心とする立憲改進党です。
このような政党結成の動きに対して、政府は集会条例を制定して抑え込みをはかりました。
③民権派による激化事件と政党の解散
1882年から86年にかけて、民権派の行動は過激化しました。
しかし、自由党も立憲改進党も過激な行動を抑えることはできませんでした。
このような過激な行動を抑えられなくなった自由党は解散、立憲改進党でも大隈重信が離党するなど、無力化していきました。
1882年の福島事件、1884年の秩父事件などの過激な事件をひとまとめにして激化事件と呼びます。
特に、秩父事件は、過激派と地元住民が困民党を結成して、減税や借金の返済猶予などを求めている点で、一揆に近い性質すら持っていました。
政府は激化事件を力で弾圧しました。こうして、民権派は力を失って沈黙せざるを得なくなったのです。
三大事件建白運動
①運動のきっかけ
大同団結運動のきっかけになったのは、条約改正への批判でした。
1887年、しばらく沈黙していた民権派は井上馨外相が行っていた条約改正を猛然と批判しました。
井上がやろうとしていたことは・・・
・居留地を廃止して、外国人が日本のどこでも好きなように住めるようようにする(内治雑居)。
・外国人の判事を採用する。
・領事裁判制度を廃止する。
という内容でした。
井上の改正案には政府の内部からも批判が上がっていました。民権派は「外国人に好きなようにさせるくらいなら、今の条約の方がましだ!」と大反対。この批判に新聞も同調しました。
1886年のノルマントン号事件では、船長が日本人の乗客を助けなかったことで国民の井上外交に対する反発が決定的なものとなりました。
その結果、井上は諸外国との交渉を中止せざるを得なくなりました。
②運動の盛り上がり
こうして勢いを得た民権派は、地租軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回の3項目を「三大事件」として掲げ、東京に集結しました。
そして、集まった民権派は政府に対して建白書を提出し実行を迫りました。
運動は1887年には最高潮に盛り上がり、民権派は勢いを取り戻しました。
大同団結運動のはじまり
(星亨 出典:Wikipedia)
①運動の盛り上がり
三大事件建白運動の1年前の1886年。旧自由党系の全国集会で星亨が「4年後に迫った国会開設に備えて、民権各派は小異を捨てて大同につくべきだと説きます」。
これは、小さな違いなど捨てて、一致団結して政府に立ち向かうべきだということです。
星は、翌年に始まる三大事件建白運動の中心人物でもあります。
星は運動の盟主として明治維新でも活躍した大物である後藤象二郎を担ぎ出しました。
(後藤象二郎 出典:Wikipedia)
後藤の知名度と星の実行力によって運動はどんどん盛り上がりました。
三大事件建白運動をうまく活用することで、「みんなで団結して政府と戦おう」という大同団結運動の目的を達成していったのです。
後藤象二郎は東北や東海地方・北陸地方を積極的に回り、政府に批判的だった地方の人々の期待を集めました。
②政府の反撃と運動の崩壊
三大事件建白運動の盛り上がりは、政府に打撃を与えました。
三大事件建白運動を弾圧し、民権派の団結を促す大同団結運動を阻止するため、政府は1887年に保安条例を制定しました。
保安条例とは、秘密結社や集会の禁止、内乱の恐れのあるものの事実上の東京追放などが定められた法律です。
この法律ができたことで、民権派の中心人物だった星亨や尾崎行雄、片岡健吉、中江町民など570人が追放されました。加えて、政府はもう一人の中心人物である後藤象二郎の懐柔をはかりました。
1889年にできた黒田内閣は、後藤象二郎を逓信大臣に任命して味方に取り込んでしまうのです。民権派からすれば後藤の裏切りとうつったでしょう。
中心人物を失った大同団結運動は1889年のうちに沈静化しました。
大同団結運動後の民権派の動き
運動自体は1889年で下火になりましたが、民権派の力がなくなったわけではありませんでした。
1889年の第一回総選挙で、民権派の立憲自由党と立憲改進党は過半数を占めました。
その後の議会(初期議会)では、民党は一致団結して政府に対抗しました。
大同団結運動の意義
大同団結運動は、激化事件後の混乱でバラバラになってしまった民権派をまとめ上げ、政府に対抗する力を復活させたという点でとても意義のある運動でした。
その意味で、大同団結運動は自由民権運動の総まとめといってもよい運動です。
入試に向けてワンポイントアドバイス
入試では、民権派の動きと政府の弾圧立法がセットになって出題されます。
大阪会議と讒謗律・新聞紙条例、明治十四年の政変・国会開設の勅諭と集会条例、三大事件建白運動と大同団結運動と保安条例。
これらの組み合わせは鉄板といってもよい出題率なので、十分注意しましょう。
まとめ
・大同団結運動は民権派が起こした最後の自由民権運動のこと。
・大同団結運動のきっかけとなったのが三大事件建白運動。
・三大事件とは、地租軽減、集会・結社の自由、外交失策の挽回。
・大同団結運動の中心人物は後藤象二郎と星亨。
・大同団結運動の盛り上がりを阻止するため、政府は保安条例を制定した。
・入試問題では、民権派の動きと政府の暖つ立法がセットで出題される。