【大塩平八郎の乱とは】わかりやすく解説!!乱発生の原因や内容・その後の影響など

 

1837(天保8)年、大阪で起きた大塩平八郎の乱は小学校の教科書にものっている大事件です。

 

「いやみな(1837)」とか「人は皆(1837)」など、語呂合わせもたくさんあります。

 

しかし、この反乱はわずか1日で決着がついた反乱だったのです。それなのに、なぜこんなにも大きく取り上げられるのでしょう?

 

今回は、乱の後まで日本史に大きな影響を与えた『大塩平八郎の乱』についてわかりやすく解説します。

 

大塩平八郎の乱とは?

(大塩平八郎 出典:Wikipedia

 

 

大塩平八郎の乱とは、1837年(天保8年)に大坂町奉行所の元与力(下級役人で、同心たちを束ねる役職)だった大塩平八郎が大坂で起こした反乱のことです。

 

天保の飢饉に苦しむ人々を町奉行所が救わないことを批判し、大坂市内の豪商の屋敷などを襲撃しましたが、裏切り者がいたため、わずか1日で乱は鎮圧されました。

 

大塩平八郎の乱が起こった背景と原因

(天保の大飢饉 出典:コトバンク

①天保の大飢饉

1833(天保4)年、全国的な天候不順や冷害・暴風により天保の大飢饉が始まりました。

 

全国各地で食糧が不足し、20万人から30万人が餓死したといいます。

 

江戸や大阪などの大都市では米価が急激に上昇。これに怒った市民たちは豪商などを襲撃する打ちこわしを行いました。

 

また、農村でも被害は深刻でした。三河(愛知県東部)の加茂一揆、甲斐(山梨県)の郡内騒動などでは米価の引き下げ要求が出されました。

 

②飢饉に苦しむ大坂

天保の飢饉は6年以上におよぶ長い飢饉でした。

 

本来なら米をはじめ各地から産物が集まる「天下の台所」の大坂でさえ、食糧不足が深刻で、毎日100人以上の餓死者が出たといいます。

 

これを見た元与力で私塾洗心洞を経営していた大塩平八郎は蔵書を売却して、困った人々に食料を与えました。

 

③大坂町奉行所の失政

飢饉で餓死者が出る状況に対して、町奉行所は有効な対策を立てることができませんでした。

 

しかも、町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の弟)は豪商から買った米を江戸に送ってしまいます。

 

食糧難に苦しむ人々の反感は、ますます高まりました。

 

④豪商による米の買い占めや売り惜しみ

米価がどんどん高騰するのを見た豪商たちは、米を買い占めてさらに値を釣り上げていきました。

 

また、すでにある米をなかなか売らず、米価がさらに向上するのを待ちました。

 

大丸のような一部の商人は施餓鬼(せがき:法例の一つ)として食料を庶民に施していましたが、そうした存在は例外的でした。

 

ちなみに、大丸は施しのおかげで、大塩の乱で焼打ちされるのを免れました。

 

⑤大塩平八郎の人柄

大塩家は代々、大坂町奉行所の与力を務めていました。

 

1820年代の大坂町奉行「高井山城守」の下で平八郎は賄賂政治を摘発するなど、名声をあげました。

 

高井が町奉行を辞職すると、大塩も与力の職を息子に譲って隠居しました。

 

隠居後は陽明学者として私塾の洗心洞を開きます。

 

 

陽明学は儒学の一派で、理論よりも行動を重視しました。

 

大塩は陽明学者としても、元与力としても無策な大坂町奉行所や利益をむさぼる豪商たちが許せなかったのでしょう。

 

大塩平八郎の乱の内容

(大塩平八郎の乱『大阪の炎上』 出典:Wikipedia

①乱の準備

平八郎は万一に備え、家族と離縁して覚悟を決め、大砲や火薬・弾薬を購入し弟子たちに軍事訓練をさせます。

 

名目は各地で起きる一揆に対処するためです。

 

近隣の農民には「豪商に天誅を加えるべし」と乱への参加を促し、また大坂市中には「火災が起きたら天満に駆け付けよ」との檄文を配布し、乱を拡大する準備を整えました。

 

決行するのは二人の大坂町奉行が顔を合わせる日。会合場所を襲撃し爆破するという計画でした。

 

②乱の始まりと終わり

決起の直前、参加者の一人が裏切って町奉行に通報。

 

計画が漏れたことを知った平八郎は予定を変更して一気に豪商の屋敷を襲撃しました。

 

事前に平八郎の計画を知っていた奉行所側は準備を整えて待ち受けます。

 

各地で奉行所側が平八郎の手勢を打ち破り、その結果、乱はたった1日で終わってしまったのです。

 

③大塩平八郎の死

乱の失敗から1か月後、平八郎の潜伏先を大阪城代「土井利位」がつかみます。

 

 

(土井利位 出典:Wikipedia)

 

 

土井の手勢に囲まれた平八郎は爆薬を使って自害しました。

 

その後、首謀者の大半は自害したり捕まったりしましたが、ほとんどが拘留中に死亡しました。

 

死者の遺体は埋葬を許されず、塩漬けにされて保管したうえで刑場にはりつけにされて見せしめとなりました。

 

大塩平八郎の乱の影響

①元役人が反乱を起こしたことへの衝撃

下級役人とはいえ、幕府の家臣が反乱を起こしたことは幕府や諸藩に衝撃をもたらしました。

 

下のものが上に従う封建制度が200年以上続いた日本では、天地がひっくり返るほどの衝撃だったはずです。

 

 

②生田万の乱の発生

大坂と似た状況にあった越後(新潟県)の柏崎では、儒学者の生田万が大塩平八郎の乱の影響を受けました。

 

生田は数名の手勢で柏崎の代官所を襲撃。

 

生田万の死により乱は収まりましたが、幕府の代官所が襲撃を受けたことで、さらなる衝撃が広がりました。

 

 

③天保の改革のきっかけの一つ

大塩平八郎の乱、生田万の乱と相次いだ幕府領での反乱は幕府に何らかの対策をしなければならないという危機感を持たせました。

 

12代将軍の下で老中首座だった水野忠邦は享保の改革や寛政の改革にならった幕府の大改革を行います。

 

 

(水野忠邦 出典:Wikipedia)

 

 

それが、江戸三大改革の一つ「天保の改革」です。

 

 

こうして水野は改革を成功させ、幕府の権威復活を狙いました。

 

しかし、天保の改革は水野の強引なやり方もあって失敗に終わり、かえって幕府の権力は衰退しました。

 

大塩平八郎の乱の意義

 

元役人である大塩平八郎の反乱は、農民一揆と異なりはっきりと幕府のやり方を批判した反乱でした。

 

そのため、平八郎の考え方に賛成する者も多く、生田万のように彼に影響を受けたと公言する者もあらわれました。

 

幕府権威が低下するきっかけとなった反乱なので、たった1日で鎮圧されても歴史の教科書で大きく扱われるようになったのです。

 

まとめ

 大塩平八郎の乱は大坂町奉行所元与力の陽明学者大塩平八郎が起こした反乱のこと。

 天保の大飢饉で大坂でも多くの死者が出た。

 大坂町奉行所は有効な対策を打てず、豪商は米の買い占め・売り惜しみを行った。

 町奉行や豪商の行為に怒った大塩平八郎が弟子たちとともに反乱を起こした。

 裏切りがあったため、乱は1日で鎮圧され、大塩も自殺した。

 大塩平八郎の乱の影響を受け、越後で生田万の乱がおきた。

 大塩平八郎の乱などのせいで幕府の権威は低下し、天保の改革のきっかけとなった。