江戸時代に山口県の西部にある港町、下関で起きた戦争『下関戦争』
今回はこの下関戦争がどのような戦争だったか、なぜこの戦争が起こってしまったのか、わかりやすく解説していきます。
目次
下関戦争とは
(連合国によって占拠された長府の前田砲台 出典:Wikipedia)
ペリー来航をきっかけに日本の鎖国政策は終わりを迎えました。開国によって日本はアメリカなどの西欧諸国と取引を始めますが、結ぶ条約は日本にとって不平等なものばかりでした。
それに不満を持った長州藩の志士達は外国人を追い払おうと1863年(文久3年)、アメリカを始めとする西欧諸国4ヶ国の外国船を砲撃します。
しかし、1864年(文久4年)には反対にこの4ヶ国が手を組み、長州藩に対して攻撃します。この一連の攻防のことを下関戦争と言います。
下関戦争はなぜ起こった?原因・流れ
なぜ250年以上も鎖国を行っていた江戸幕府は開国することになったのでしょうか?
またなぜ開国して外国と取引を開始したのに、下関戦争のように長州藩の志士達は外国船に攻撃を仕掛けたのでしょうか?
戦争が起こるまでどのようなことがあったのか解説していきます。
①ペリー来航と鎖国の終わり
(黒船来航の様子)
1853年、当時外国と交流することなく鎖国を行っていた日本に黒船を乗って来航したのがアメリカからやってきたペリー提督でした。
ペリーは江戸幕府に対して開国を要求します。日本の船よりも何倍も大きく、蒸気で動く船は幕府に圧倒的な技術力の差を見せつけました。
これには幕府も抵抗出来ず、翌年(1854年)に日米和親条約を結び、開国しました。
②不平等な条約の締結
1854年に結ばれた日米和親条約でアメリカは日本に北海道の函館と伊豆半島の下田を開港させました。この2つを拠点に食料や石炭の補給を行ったのです。
そして1858年にはハリスという日本の初代駐日公使に日米修好通商条約を結ばされます。
この条約は新たに神奈川、新潟、兵庫、長崎の開港と居留地の設置を命じられました。(※その代わり下田は閉じられました。)さらに、オランダ、フランス、イギリス、ロシアからも同じ内容の条約を結ばされてしまいます。
これにより日本はこの諸外国との貿易を始めなければなりませんでした。
また、日米修好通商条約では領事裁判権を承認させられ、関税自主権も放棄させられてしまいます。
この二つの条約は日本の経済や国際的地位を損なわせました。
明治時代になり政府も撤廃の為に動きましたが中々上手くいかず領事裁判権が1894年、関税自主権がポーツマス条約を締結した1911年まで改正されず、53年もの年数が掛かったのです。
③尊王攘夷の起こり
幕末、日本は上述した2つの不平等条約によって国益を損ねておりました。
実際問題、当時の日本と諸外国では圧倒的に軍事力に差があり要求を呑まざるを得ませんでした。
国民は勿論この状況に面白いと思うはずがなく、このままでは日本が侵略されてしまうと考え、アメリカを始めとする外国を追い払わなければならないという攘夷思想が生まれます。
また、開国し外国の勝手な要求を朝廷に許可も得ずに認めた井伊直弼を非難し、幕府ではなく天皇のために戦わなければならないという尊王論が流行りました。
そして、攘夷思想と結びついて下級武士や村の長から尊王攘夷運動が起こるようになります。
特にこの尊王攘夷思想に積極的だったのが松下村塾で吉田松陰から教えを受けていた高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文を中心とした長州藩でした。
④安政の大獄と桜田門外の変
日米修好通商条約を勝手に結んでしまい、糾弾されていた井伊直弼は尊王攘夷一派を取り締まらなければ政治が混乱すると考えました。
そのため、朝廷に勝手に来て、天皇に対し攘夷思想を働きかけた吉田松陰をはじめとする志士達100人以上を謹慎・投獄・処刑などの罰を与えました。これが1858年に起こった安政の大獄です。
しかし、これによってさらに攘夷志士の怒りを買ってしまった井伊直弼は1860年3月に水戸と薩摩の藩士によって江戸城の桜田門外で襲われ死んでしまいます。これを桜田門外の変と呼びました。
⑤公武合体
日米修好通商条約に続き、安政の大獄によって国民から不満を持たれてしまっていた幕府は朝廷側に協力して政策を進めることで過激な攘夷志士や反幕府勢を抑え、体制を立て直したいと考えておりました。
この朝廷も政治に参加することを公武合体論といいます。
朝廷も攘夷を進めていくことを条件にして1862年、孝明天皇の妹、和宮と14代目将軍徳川家茂(いえもち)が結婚することを認めたのです。
下関戦争の勃発
①攘夷決断
攘夷をするといっても西欧列強との圧倒的な軍事力の差が埋まるわけではなかった為、幕府にとってのこの公武合体は本当に形式上のものでした。
それを見破っていた長州藩は攘夷を決行する日を1863年の5月10日に決めさせました。
②長州藩の攻撃(下関事件)
(被害を受けたフランスのキャンシャン号)
当日、幕府から攘夷の命令が何もなかった為、長州藩は攘夷を決行します。
軍艦計4隻用意し、瀬戸内海の交通の要所である下関海峡を封鎖しました。そして、最初に通りかかったアメリカの商用船、ペンブローク号を砲撃しました。
さらに約2週間後の5月23日には下関の沖に停泊しているフランスの軍艦、キャンシャン号にも砲撃します。この砲撃では死者も何人か出てしまいます。
そして3日後の5月26日、今度はオランダの軍艦メデューサ号に対し砲撃を行ないます。
オランダは日本が鎖国していた時から貿易など友好関係があった為、自分達は砲撃を受けないだろうと考えていた為、友好関係を壊す出来事となりました。
これら4度の砲撃が長州藩外国船砲撃事件または下関事件といわれました。
③アメリカとフランスの報復
(アメリカ艦による下関への攻撃)
6月に入ると、アメリカが軍艦で5月の仕返しにやってきました。
長州藩は抵抗する事が出来ず、軍艦を撃沈されてしまいます。また、フランスもやってきて砲台を破壊されてしまいました。
これは長州藩にとって大きな被害だったのですが、懲りずに攘夷の姿勢を変えませんでした。
④馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)
砲撃事件の報復で攘夷思想を辞めなかった為、下関の海峡を外国船が通る事が出来ませんでした。また砲撃される危険性があったからです。
しかし、下関の海峡を通れないのは大きく不便な事で貿易も出来ない為、イギリスが中心となってアメリカ、フランス、オランダと4ヶ国で武力行使に出ることにしました。
1864年の8月、4ヶ国はそれぞれ軍艦を率いて長州へ攻撃を行います。長州藩も対抗しましたが兵力に大きな差があり、占拠され敗北を喫してしまいました。
下関戦争の影響・その後
長州藩は戦争を終わらせる為に4ヶ国の要求に応じ講和を成立させることで、8月18日に戦争は終結しました。
しかし、これにより幕府は多額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
まとめ
・日本は西欧諸国から不平等な条約を結ばされ開国した。(日米和親条約・日米修好通商条約)
・不平等条約により、幕府は不満を持たれ、天皇を尊び、外国を排斥しようとする尊王攘夷論が広まった。
・井伊直弼は攘夷志士達を投獄したが、桜田門外で殺されてしまう。(安政の大獄・桜田門外の変)
・不満を持たれた幕府は朝廷を政治に参加させ、攘夷を行うと決断。(公武合体)
・長州藩は下関で攘夷を決行し、外国船を攻撃する。(下関事件)
・諸外国は攘夷思想を止めない長州藩を攻撃し、降伏させた。(馬関戦争)
・長州と諸外国の二つの争いを総称して下関戦争という。