明治維新の立役者とも言える大久保利通の最期は暗殺でした。

 

なぜ、大久保利通は暗殺されたのでしょうか?

 

今回は大久保利通が暗殺された事件「紀尾井坂の変」についてわかりやすく解説していきます。

 

紀尾井坂の変とは

 

紀尾井坂の変とは、1878年(明治11年)に明治政府の内務卿(実質上の首相)である大久保利通が不平士族6名により暗殺された事件のことです。

 

東京の紀尾井町清水谷で暗殺されたため、「紀尾井坂の変」、「紀尾井坂事件」とも呼ばれています。

 

実行犯である不平士族は暗殺した日に、大久保利通と政府高官たちの罪を告発する斬奸状を手に自首しています。

 

紀尾井坂の変はなぜ起こったのか?

 

 

なぜ、紀尾井坂の変が起こったのでしょうか。

 

大久保利通とはどんな人だったのでしょう。また、不平士族とはどういう人たちだったのでしょう。

 

①明治維新

暗殺事件が起こったのは1878年で、明治維新が始まって約10年後です。

 

明治維新とは武士が国を支配していた幕府体制から、明治天皇を中心とする体制に転換するための一連の改革のことです。

 

それは政治体制だけではなく、行政・司法・立法など国の根幹の転換があり、また経済・文化・教育など様々な分野で改革が行われていきました。

 

こうして日本は「富国強兵」「文明開化」など西洋の影響を受け、近代国家の道を進み始めます。

 

 

もちろん改革が問題なく行われたわけではありません。以前の支配層である武士たちの反抗もありました。

 

明治維新が始まって、紀尾井坂の変が起こる頃までには日本各地で旧武士たちが明治政府と衝突する戦争が続きました。

 

 

②大久保利通とはどんな人だっかのか。

(大久保利通 出典:Wikipedia

 

 

明治維新は、主に長州藩と薩摩藩と土佐藩が中心となり、江戸幕府を倒して始まりました。

 

こうした経過から、明治政府の中心はこの3藩出身のものたちでした。

 

大久保利通は薩摩藩出身で、西郷隆盛とは学友でした。

 

幕末時には、薩摩藩の島津久光の側近となり、公武合体路線を進めます。

 

 

その後、武力により幕府を倒す路線に転換。同じ主張を持つ土佐藩や長州藩のものたちと親交を持ち、倒幕運動の中心人物となるのです。

 

明治維新後は、明治政府の内務卿となり、学校制度や地租改正、徴兵令などを実施していきます。

 

当時の大久保を知る人物は、寡黙で冷静、威厳のある人物と評され、理論家でもあり大久保に理論で太刀打ちできるものはなかったということです。

 

③不平士族とは

明治維新後に、今までの身分制度が一新されました。

 

江戸時代の身分制である士農工商が廃止され、旧武士階級は士族となり、元公家と大名などは華族とされ、その他は平民となりました。

 

 

身分制が変わったことにより、今まで支配階級であった武士たちは政府から給与として家禄をもらうことになります。

 

ただ、それも1876年の秩禄処分で廃止され、また同年には廃刀令が出され、士族たちは刀を身に付けることを禁止されます。

 

 

武士としての特権をすべて失うことになりました。

 

こうした明治政府の政策に不満を持つ士族たちを不平士族と呼びます。

 

同年、萩の乱神風連の乱秋月の乱といった不平士族の乱が起こり、そして1877年には不平士族の最大の乱と言われる西南戦争が起こります。

 

 

紀尾井坂の変の内容と犯人たち

 

 

大久保利通が暗殺されたのは、不平士族たちの政府への不満が高まっていた時期でした。

 

暗殺事件は、いつどこでどのように起きたのでしょうか。

 

①いつ・どこで起きたのか?

1877年に西南戦争が起こり、政府の勝利で終わります。

 

それを最後に士族の反乱は鎮まりますが、不満が消えたわけではありませんでした。

 

その翌年の5月14日、大久保は午前8時頃に自宅を出ます。

 

明治天皇に謁見するために、赤坂仮皇居(現在の東宮御所)に向かうところでした。

 

午前8時30時頃、紀尾井町清水谷の紀尾井坂付近(現在の参議院清水谷議員宿舎前)で暗殺犯人たちに襲撃を受けます。

 

2頭立ての馬車で移動しており、大久保は犯人たちに馬車から引きずりだされ、頭部など16ヶ所を斬りつけられて殺されます。

 

介錯として首に刺された刀は地面にまで達していたと言われています。

 

また、事件後駆けつけた前島密は、「頭蓋が砕けて脳が尚も振動しているのを見る」と言い残しています。

 

このことから凄惨な殺害現場をまざまざと目に浮かぶことができます。

 

②犯人たちは誰か?

(大久保利通が乗っていた馬車)

 

 

暗殺犯たちは、事件を起こした当日には自首をしています。

 

犯人たちは石川県と島根県の士族6名でした。

 

石川県の島田一郎・長連豪・杉村文一・杉本乙菊・脇田巧一と島根県の浅井寿篤の6名で、中心的人物は島田一郎でした。

 

島田は西郷隆盛が主張する征韓論に共鳴しており、西郷が下野したことに憤りを感じていました。

 

 

1877年の不平士族の乱が起こったときには、金沢で兵を挙げる計画を立てましたが、失敗に終わります。

 

また、西南戦争でも戦争に参加しようと計画しますが、政府軍が熊本城に入ったと聞いて断念します。その後、政府高官の暗殺計画へと方向転換をしていくのです。

 

島田を始めとする暗殺犯たちは、暗殺時に大久保や他の政府高官を告発する斬奸状を所持していました。

 

③暗殺の理由

島田を始めとする暗殺犯たちが携えていた斬奸状には、5つの罪が書かれていました。

 

そこには、国会や憲法を制定せずに民権を抑圧していることや必要のない土木事業などで国費を無駄遣いしている、外国との不平等条約を改正せずに、国威を貶めているなどです。

 

また、明治政府が薩摩・長州・土佐藩出身のもので占められ、役人になるのもコネなどがあると、当時の不平士族の不満を反映する内容でした。

 

この不満の矛先が明治政府の実質的主導者である大久保に向けられたのが、紀尾井坂の変が起こった理由でした。

 

斬奸状には、国費を自分のものにしたという大久保への非難の言葉がありましたが、実際の大久保は私費を投じて公共事業を行うなどしていました。

 

そのため、大久保の遺族には多額の借金が残されたと言います。

 

紀尾井坂の変のその後

 

 

大久保が暗殺された後、その遺族や犯人たちはどうなったのでしょうか。

 

そして、大久保亡き後の日本はどうなったのでしょうか。

 

①大久保利通の葬儀と犯人たちの罪

大久保利通の葬儀は、約1200名が集まり、費用4500円という近代日本史上初めての国葬級の葬儀でした。

 

警察の捜査は厳しく、斬奸状を作成したもの、島田に頼まれて斬奸状を各新聞社に送ったもの、事件後に喜んで国に手紙を書いて送った石川県人など約30名が逮捕されました。

 

自首をした犯人たちは、反政府的行動を取った「国事犯」として扱われ、7月27日には斬首刑を受けています。

 

この暗殺事件をきっかけとして、その後政府高官の移動には近衛兵の護衛が付くようになりました。

 

②大久保利通の遺族

莫大な借金を残された遺族ですが、政府が協議の上、大久保が生前学校費として鹿児島県に寄付していた8000円を回収し、また8000円の募金を集めて、それで生活の糧にしたそうです。

 

大久保は西南戦争の時に西郷隆盛を敵に回します。

 

そのため、地元鹿児島では冷ややかな目で見られていました。

 

暗殺された後も、鹿児島に帰ることはなく、東京の青山霊園に墓地があります。

 

西郷との関わりでは、暗殺された時も西郷からもらった手紙を懐に持っていたそう。それだけ、大久保にとっては西郷のことは心残りだったのでしょう。

 

また、暗殺される数日前には、西郷と口論し、西郷に追われて崖から落ちる夢を見たとの言葉が残されています。「崖から落ちた自分の脳がピクピク動いているのが見えた」と、暗殺される自分を連想するような夢でした。

 

③現代に蘇る大久保利通

(紀尾井坂の変の石碑 出典:Wikipedia

 

 

大久保利通が暗殺されて、140年経ちました。暗殺されたその場には現在石碑が立っており、その当時を偲ぶことができます。

 

また、人気漫画「るろうに剣心」にも登場するのです。

 

「るろうに剣心」は、明治初期時代を舞台にしたオリジナルストーリーの漫画ですが、新選組や紀尾井坂の変など実際の人物や事件を絡ませています。

 

主人公の剣心に京都で暗躍する人斬りを暗殺するよう依頼するのが、大久保利通です。

 

剣心が依頼の返事をしようと大久保のところに向かいますが、大久保は紀尾井坂の変で暗殺されるという内容になっています。

 

漫画の登場人物として、少しは身近な存在に感じられるのではないでしょうか。

 

まとめ

・紀尾井坂の変とは、当時の内務卿である大久保利通が不平士族6名により、暗殺された事件である。

・大久保利通は、明治維新を実質的に中心になって進めた人物であった。

・明治維新後、各地で不平士族により明治政府に対する反乱が起こっていた。

・秩禄処分と廃刀令は、士族たちに経済的精神的に大きな打撃を与えた。

・大久保利通暗殺後、政府高官には護衛が付くようになった。




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