【華族令とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ制定された?目的や廃止など

 

1871年、政府は四民平等を発表して日本人は全て平民ということになりました。

 

しかし、これまで身分のトップにいた武士たちはこの発表に反対します。

 

そこで政府は平民の他に士族と華族という身分を作りました。

 

今回は四民平等が出来た時に新しくできた身分華族令と華族について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

華族と華族令とは?

 

 

華族というのは廃藩置県の時に作られた特権階級のことで主に大名や公家がなっていました。

 

元々華族というのは五摂家の次にえらい公家であった清華家の別名です。

 

華族令とは、1884年(明治17年)華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つのランクに分けた制度のことです。

 

このランクは江戸時代の藩の石高で決められていました。

 

華族が作られた背景や目的

①大名の不満を避けるため

江戸時代が終わり明治時代に入ると政府は日本全体を政府のものとするために廃藩置県を実行しました。

 

 

この廃藩置県によって全国の藩は消滅して大名は政府から東京に行くように命令されます。

 

しかし、元々その地域のトップの地位にいた大名が、いきなり新しくできた政府によって無理矢理やめさせられるとなると不満が爆発し、最悪戊辰戦争のような内戦が起こるかもしれません。

 

 

ただ、大名からすると廃藩置県によって溜まっていた藩の借金がゼロになるため、反乱を起こす気は無かったのです。(ただし島津久光は除く)

 

②皇室の守護者とさせるため

新政府は一応天皇の名のもとに作られたものですので、大名は皇室のお守りする人としました。

 

元々武士は天皇や皇室の警護をする人だったので原点復帰と言えますね。

 

華族の豪華な特権

(1912年 華族会館の内装 出典:Wikipedia

 

 

華族は他の身分とは以下の特権があります。

 

華族の特権

・家の世襲(継ぐこと)

・100%官位をもらえる

・身分の保証

・学習院に無条件で入学できる

 

大名の不満を抑えるにはこれぐらいしなければいけない人もいたのです。

 

さらにお金がない場合は政府からお金が支給されるシステムもありました。

 

また、大日本帝国憲法が出来て議会が開かれるようになると華族たちは貴族院議員になれるようになります。

 

貴族院は衆議院とは違い、貴族院の法律は貴族院で決めるとされていました。

 

五摂家の1つである近衛家の人である近衛文麿は、政治家として活躍するなど華族の中でも政治家として活躍する革新華族というのもできました。

 

ちなみに学習院は現在では大学となって学習院大学として残っていますね。

 

華族のランクの違い

①公爵

公爵は明治維新を成し遂げた大名や公家。そして徳川本家がなっていました。

 

例えば・・・清華家の1つである三条家、薩摩藩主である島津家、長州藩主である毛利家などが公爵でした。

 

②侯爵

侯爵は公家の中では三条家以外の清華家、大名からは徳川御三家を始め15万石以上の大名などがなっていました。

 

例えば・・・金沢藩主前田家、尾張藩主の尾張徳川家、さらには大久保家や木戸家が侯爵でした。

 

特に木戸家からはのちに太平洋戦争で内大臣として活躍する木戸幸一が出ています。

 

③伯爵

伯爵は公家の中では大臣家、大名からは徳川御三卿を始め5万石以上の大名などがなっていました。

 

さらに伊藤博文、井上馨、山縣有朋などの明治時代の大物政治家の大半が伯爵となっています。

 

さらに浄土真宗の門跡(トップ)もなっています。

 

④子爵

子爵は公家の中では堂上家、大名からは大名の分家がなっていました。

 

さらに伯爵ほどではないけど明治時代の政治家たちが子爵となっていました。

 

⑤男爵

男爵は明治維新後に公家や大名になった家などがなっていました。

 

この人たちは華族といっても生活は苦しかったそうです。

 

華族の生活や苦悩

①意外とがんじがらめな生活

華族は皇室の守護者として国民の模範となる人として見られていたため、意外と生活は自由ではありませんでした。

 

だって嫌じゃないですか?元々大名や公家出会った華族が東京をうろちょろしていたら・・・。

 

さらに華族は絶対に学習院に入学する決まりだったため、仮に勉強嫌いでも無理矢理行かなければいけませんでした。

 

さらに家に不祥事などが起こったものならすぐさま会議にかけられて最悪の場合華族ではなくなることもありました。

 

②公家たちの苦しい生活

華族の中でも大名からなった人と公家からなった人で分かれていました。

 

しかし、大名と公家にはとある格差がありました。

 

それはお金を持っているか否かでした。

 

大名の場合最低でも1万石ありましたが、公家の場合は五摂家でも2000石しかなく、100石なんて当たり前でした。

 

そのため、生活費を払えなくなる公家たちが続発してしまい、興福寺の僧侶をルーツとしている公家である奈良華族はほとんどが華族を自ら辞める事態となりました。

 

さらに徳島藩23万石の蜂須賀家は小作争議に巻き込まれて自ら華族をやめました。

 

さらに華族の銀行として機能していた十五銀行という銀行は、金融恐慌によって破綻してしまい華族の生活は一層貧しくなってしまいました。

 

 

③華族の批判

華族制度は四民平等に反していると度々批判が起きました。

 

 

自由民権運動を起こした人で有名な板垣退助は、この制度に不満を持ち自分は渋々伯爵となりますが息子には継がせませんでした。

 

さらに議会でもこの問題は取り上げられ、広田弘毅内閣の時では部落解放運動家の人が華族令の意義に関する質問をするということもありました。

 

華族制度の廃止

時代は流れて1945年第二次世界大戦で日本は戦争に負け、GHQによる占領が始まります。

 

 

そして、大日本帝国憲法の代わりとなる新しい憲法の日本国憲法を作り変える時に華族は1948年に廃止となりました。

 

 

廃止の理由はやはり日本人みんなを平等にしたかったというものがありました。

 

華族制度が始まった時から無くなる時まであった家は全部で1011家だったそうです。

 

華族は戦後、さまざまな分野で活躍して今では霞会館という親睦会が残っています。

 

まとめ

・華族令とは華族を5つのランクに分けた制度のこと。

・華族は公家や大名などがなり、この家族には様々な特権があり優遇されていた。

・華族の中では奈良華族のように生活に苦しんで自ら華族をやめてしまう人も存在した。

・華族は1948年に日本国憲法発布の際に廃止された。

 

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【読者の感想】

「華族」と言う言葉を聞くと、すぐに鹿鳴館でダンスに興じている人たちをイメージしてしまうのだが、やはりそれは一面に過ぎない。公家と大名、軍人と経済人、歴史ある家系と明治以降の成り上がり、と言った風に様々な階層の人たちを含んでいたために決して一枚岩ではなく、大資産家がいた一方、経済的困窮から爵位を返上する者、「皇室の藩屏」であったにも関わらず共産主義に共鳴する者、軍務に就くことを奨励されながらも趣味や芸術に走る者、などもいたのである。

華族制度が無くなってしまった現在、それがどのようなものであったのかを感覚的に掴むのは難しいが、本書を読むとその実態が見えてくる。

第二次大戦の終戦直後まで存在した華族制度について深くかつコンパクトに掘り下げた良書。

彼らは特権階級ではあったが、それに伴う重圧も相当なものであったことが読みとれる。

華族の中には経済的に没落し爵位を返上したもの、中には赤化したものも少なくなかったようである。

戦後の動乱期、GHQは華族解体には積極的ではなかったという事実は意外であった。

財閥解体や農地改革による地主の解体とは一線を画した認識であったようだ。

華族制度は戦後の空気の中で自壊した側面が強い。
中途半端な政治力が災いしたとも言える。

華族が門閥華族(公家華族、大名華族)に限定され、名誉のみで実権を伴わない階級と規定されていたならば華族制度は存続できたのかもしれない。

私感だが明治以降の政治家や軍人上がりのいわゆる新華族の存在が華族制度を中途半端なものにしてしまい、結果的にそれが制度の崩壊に繋がった気がしてならない。
山縣有朋が五摂家や徳川宗家と同格の公爵というところに日本の華族制度の矛盾、胡散臭さが端的に現れていると感じるのである