【川中島の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!!背景や経過・その後など【まとめ】

 

甲斐の虎・武田信玄と越後の風雲児・上杉謙信との間に起きた「川中島の戦い」。

 

12年ものあいだ五回対峙した両者ですが、まとめて川中島の戦いと言うものの、一般的は第四次合戦が最も有名です。

 

はっきりとした勝敗はつきませんでしたが、対外的には武田家は川中島を武田領にすることに成功しており、一応は武田の勝ちと言うべきなのかもしれません。

 

それでも越後への進軍を諦めざるを得ず、武田としても確実な勝ち戦とは言い切れない状態でした。

 

今回は、そんな因縁の対決『川中島の戦い』について簡単ににわかりやすく解説します。

 

川中島の戦いとは?

(信州川中嶋合戦之図 出典:Wikipedia)

 

川中島の戦いとは、1553年~1564年におこなわれた甲斐の虎「武田信玄」と越後の風雲児「上杉謙信」との間に起きた戦いです。

 

五回にも及ぶ合戦が繰り広げられ、合わせて川中島の戦いとされていますが、一般的には一番大きい戦となった第四次合戦を指すことが多いです。

 

元々は、甲斐の守護武田信玄が信濃攻略を目指して勢力を強める中、信濃の国衆の本領復帰のため、立ち上がった上杉謙信との間に起きた戦です。

 

武田家は、信濃を攻略の後は謙信の本拠地・越後攻略をも目指していました。

 

しかしながら、そこに謙信が立ちはだかり、川中島一体を武田領にする事はできたものの、越後侵略は諦めざるを得ませんでした。

 

川中島の戦いが起こった背景

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(武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像 出典:Wikipedia

①目指せ信濃!

当時は、戦国真っ只中で各地の大名達が領土拡大のため、戦を繰り広げていました。

 

甲斐統一を果たした武田家も例外ではなく、信濃へと領土拡大を進めるべく、進軍を繰り返していました。

 

着々と現地の国衆を撃破して、勢力を強める武田家を相手に最後まで抵抗したのが、村上義清です。

 

実際、武田信玄は上田原の戦いで義清に敗北をきしますが、その後、砥石城を超略すると後がない義清は信濃の背後にいる越後の上杉謙信を頼りました。

 

(武田信玄 出典:Wikipedia)

 

②上杉謙信登場

義清は、謙信を頼り越後に退きます。

 

謙信から援護を受けた義清は、再び出兵すると居城葛尾城の奪還に成功しました。

 

一度は、兵を退いた武田軍でしたが、再び進攻して来ると義清が立て籠る塩田城を攻め、義清は敢えなく越後へと逃げ帰るのでした。

 

そしてここで上杉謙信の登場です!

 

Uesugi Kenshin.jpg

(上杉謙信 出典:Wikipedia)

 

義清の本領復帰を掲げ出陣した謙信は、初めて信玄と対峙。結局どちらが勝ちと言う明確な勝敗は見出だせませんでしたが、これが第一次合戦となります。

 

そしてこの戦いを皮切りにこの両名は、10年にも及ぶ死闘を繰り広げる事となるのでした。

 

川中島の戦いの経過

(川中島の戦いの全体像 出典:Wikipedia)

①第二次合戦へ

謙信との対立姿勢を強めた信玄は、相模の北条氏康、駿河の今川義元を通じて三国同盟を結び、謙信に対抗姿勢を強めます。

 

当時、今川は大国でしたし、北条は関東を拠点に勢力を強め、謙信とも敵対していましたから、武田としては格好の後ろ楯を得た事になりますね。

 

その上、謙信の家臣・北条高広を武田に寝返らせるなど、信玄の攻防は強まって行きます。

 

特に善光寺の国衆が武田に寝返った事で謙信への圧力は強まり、再び川中島で対峙する事となったのです。

 

しかしながら、200日にも及ぶこの激戦は、両軍共に兵糧が尽きるなど、結局正確な勝敗はつかず、お互い撤退と相成りました。

 

②第三次合戦へ

その後も勢力を強める信玄に追撃するべく出陣する謙信でしたが、家臣の大熊朝秀が寝返るなど、ほとほと嫌気が差したのか、謙信は出家隠遁事件を起こします。

 

流石の謙信も家臣には裏切られ一揆が起きるわ、義清には期待されるなど、俗世が嫌になってしまったのかもしれませんね。

 

結局家臣の説得により思い止まり、出陣すると猛攻の末、尼飾城を攻めますが、武田方は決戦を避け、お互い勝敗をきすことなく撤退を余儀無くされるのでした。

 

そんな中、京では時の将軍・足利義輝が内紛により京から追放されるなど、慌ただしい世情となっていました。

 

 

義輝は自身救済の為に謙信を頼り、この長引く戦の調停役に入ると義輝の計らいで和睦を結ぶ事となります。

 

一応将軍の手前和睦を結ぶ信玄ですが、はなからすでに失墜してる将軍の言いなりになる気などなく、早々に第四次合戦への幕開けとなるのでした。

 

③第四次合戦へ

第四次合戦は、全ての戦の中で最も大規模な接戦が繰り広げられ、お互い数千人もの死者を出す事となりました。

 

しかしながら、お互い相手が強いと分かっているだけに下手に攻撃しないと言う出し惜しみ戦法を取り、膠着状態が続いていました。

 

ですが、いつまでも勝敗のない戦を続けても仕方がなく、武田方は別動隊を編成すると挟み撃ちにする戦法に動き出します。

 

しかし、流石の上杉も先にそれを読み、別動隊が布陣している夜間に静かに本隊の配置を変えると、朝方には武田の本陣前へと布陣したのでした。

 

一気に武田の本陣へと攻め混んで来た上杉勢は、何と謙信本人が単身乗り込み信玄と一騎討ちを果たします。

 

これが世に言う有名な一騎討ちシーンで、後の創作とも言われていますが、当時の目撃段として謙信自らが太刀を震ったと言う書き残しも有り、あながち嘘では無いのかもしれません。

 

信玄は軍配でそれを受け止めたとされ、激しい攻防戦でしたが、結局首を取る事はできず、仕舞いで別動隊も本隊に合流した事から、謙信も兵を退き、結局今回も明確な勝敗はつきませんでした。

 

しかし、武田勢は信玄の右腕として常に支えてくれていた弟・武田信繁が撃ち取られたほか、軍師として名高い山本勘助、重臣の諸角虎光という幹部の家臣達が撃ち取られてしまい、武田としては痛恨のミスでした。

 

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(武田信繁 出典:Wikipedia)

 

⑤第五次合戦へ

謙信は、弥彦神社に必ずや武田信玄を討つと奉納している事から、強い意思で再び出陣します。

 

お互い塩崎城を境目に布陣するも、特に信玄側は決戦を避け二ヶ月もの間、お互い膠着状態の末、にらみあいを続けていました。

 

結局大きな合戦をする事はなく、謙信も強い志で出陣しておきながらお互い兵をひき、結局勝敗をきす事はありませんでした。

 

流石にお互い考えを変えたのか、特に信玄はその後東海や美濃に関心が向き、謙信も関東官領に就任したことで関東平定に忙しく、言ってみればお互いいつまでも勝敗が付かない相手に構っている暇がなくなったとも言えます。

 

また、隣国の体制も変わりつつあり、特に大国であったはずの今川がその根幹が揺るがされ始めており、織田の勢力が強まっていて、時代の移ろいが変わって来たと言わざるを得ませんでした。

 

その後の両者

 

武田家では、織田家との友好関係を築く方針に切り替え、当時織田と敵対していた今川家の姫を正室にしていた嫡男・義信を追放すると、四男・武田勝頼が嫡男に据え置かれ、織田信長の養女を娶る事で同盟となりました。

 

そして、信玄、謙信と相次いで亡くなると勝頼は上杉とも友好姿勢を取り、謙信亡き後を継いだ上杉景勝に妹菊姫を嫁がせ、あの川中島の戦いが嘘のように同盟関係を結ぶ事となりました。

 

ですが、それにより織田との同盟が破綻してしまい、信長に攻められた武田家は滅亡する事となりました。

 

上杉家は、江戸時代も米沢藩主として生き残り、後世まで大名として生き残りました。

 

まとめ

まとめ

 

 川中島の戦いは、通算して12年近くにも及び、五回対峙するが、一般的には、第四次合戦が有名である。

 

 特に勢力を強める武田信玄は、信濃攻略を目刺し、着々と現地の国衆を撃破するが、村上義清が最後まで抵抗する。

 

 義清から助けを乞われた上杉謙信は、義清の本領復帰の為、出陣する。

 

 お互い譲らない戦いを続けるも、第四次合戦では、武田の戦法を見破り先回りする事で本陣へ打撃を与える。

 

 時代が移ろうと同盟を結び、友好関係になるも武田は、織田によって滅ぼされる。