【五品江戸廻送令とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜだされた?目的・理由やその後など

 

日本が開国した時、日本で作った商品が外国に輸出されるようになりました。

 

しかし、その輸出によって幕府の経済が苦しくなり、さらに特に江戸では商品がこないことなんてのもありました。

 

今回はそんな江戸に商品が来ないのをなんとかするために作られたルールである『五品江戸廻送令』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

五品江戸廻送令とは

 

 

五品江戸廻送令とは、江戸幕府が1860年(万延元年)に作った生糸・米・水油・蝋・呉服の五品は必ず江戸を経由しなければいけないことを決めたルールです。

 

このルールの背景には日米修好通商条約によって横浜港が開港して貿易が始まっていました

 

五品江戸廻送令はなぜ出された?

 

1858年に日米修好通商条約が結ばれて日本が貿易を始めるようになりました。

 

 

外国と貿易を始めると開いたばっかりの横浜港に外国人がやってきて『この品物はいいですね!言い値で買い取らせていただきます!』と言って買ってくれるようになりました。

 

この頃、中国では太平天国の乱アロー戦争などの内乱や戦争などが立て続けに起こり、イギリスやフランスなどが介入するようになります。

 

 

そのため、中国に一番近い国のひとつであった日本の商品を高い値段でも買う必要があったのです。

 

これに喜んだのは外国人相手に商売していた商人たち。

 

これまでは江戸にいた株仲間(商人の組合みたいなもの)が安い値段で売っていたため、商人の儲けが少なかったのに、外国人がやって来てからは一変、商品が高い値段で売れるようになったではありませんか!

 

そのため、都合のいい外国人に売るために商人たちはわざわざめんどくさい江戸に行かずに横浜港で商品を売っていました。

 

すると、江戸には商品が流れてこなくなってしまいます。それもそのはず江戸に来るべき商品は全て横浜港で売り飛ばされているのですから。

 

そのため商品が来なくなってしまった江戸では商品の値段が急上昇!結果、物が買えなくなってしまった江戸の民衆たちの生活は苦しくなってしまいました。

 

ちなみにこのころの江戸の人口は一説によると100万を超えており、世界最大の都市のひとつでもありました。

 

五品江戸廻送令の目的・理由

 

 

江戸に商品が来なくなってしまって困った幕府や江戸の商人たちは、1860年に五品江戸廻送令を出しました。

 

このルールの狙いは、商品(特に生糸)などをわざわざ江戸の商人たちに来るようにして、そこから決めた分だけの商品を横浜港に送って輸出するようにするためでした。

 

こうすることで江戸の商品不足がなくなり、さらに外国に輸出する商品の量を調節することができるようになりました。

 

幕府は特に江戸に商品が来るように5つの商品を決めました。その5つ商品は生糸・米・水油(菜種油やびんつけ油)・蝋・呉服の五品です。

 

全て生活に必要不可欠なものですね。

 

五品江戸廻送令の結果

①ルールを守らない商人たち

幕府が五品江戸廻送令を出しても、商人はルールを守らずに普通に商品を横浜港で外国人に売っていました。

 

まぁ、普通に考えてわざわざ江戸に回したところで商人にとってプラスになることなんてほとんどありませんし、さらに幕府も違反したところでなんかすることはありませんでした。

 

②列強諸国の圧力

このルールに反発した人は商品を売っていた商人だけではありませんでした。物を買っていた外国人たちもこのルールに反対することになるのです。

 

転機が訪れたのは1864年。この年下関海峡を通ろうとした外国船が長州藩に砲撃される事件が起きてしまいました。

 

この四国艦隊下関砲撃事件がきっかけとなって列強諸国たちはは幕府へ同法令の撤回を強く迫るようになります。(ちなみにこの頃に結ばれた日本の関税を20%から5%に変更させた改税約書も忘れずに。)

 

 

一方、幕府からも江戸に無理矢理商品を回さずに、生糸を輸出するときに税金をかける形で抑制した方が輸出量が減って、さらに幕府のふところもあったまるようになるという意見も出されました。

 

その結果、幕府も外国人にこれ以上いちゃもんつけられるのも嫌だし、さらに開国の流れを止めるのは得策でないと判断して、実質的にこのルールは廃止されることになりました。

 

つまりこの五品江戸廻送令は失敗に終わりました。

 

五品江戸廻送令が出されたその後

①生糸農家による幕府への怒り

五品江戸廻送令が出されてもなお生糸はどんどん外国へと輸出されます。

 

幕府はそんな生糸に税金をかけるために『生糸并蚕種紙改印』という制度ができます。

 

この制度は生糸の生産者に利益の一部を幕府にを納めさせるようにしたものです。これによって幕府は財政を立て直そうとしますが、これに対して生産農家はもちろん幕府に反発するようになっていきました。

 

②米の価格の急上昇と世直し一揆

五品江戸廻送令が失敗に終わった後、日本の米や生糸の価格は急上昇してしまいます。

 

だって五品江戸廻送令が失敗に終わったらまた江戸に商品が届かなくなってしまいましたからね。その結果民衆たちは米が買えなくなってしまい、生活は苦しくなってしまいます。

 

さらに幕府の財政が悪くなったことによって税金も重くなってしまい民衆はボロボロになってしまいました。

 

そして京都で禁門の変が起きてさらに米の価格が上がると民衆の怒りは大爆発。

 

 

商人や幕府の蔵などを襲い始めました。これがいわゆる世直し一揆というものです。

 

 

この結果、幕府の崩壊に拍車がかかってしまいました。

 

五品江戸廻送令の覚え方『ゴロ合わせ』

 

ちなみに五品江戸廻送令の覚え方は・・・

覚え方

老齢の老後は雑炊(ぞうすい)が良(いー)との誤解

1860年、蠟(ろう)・呉服(ごふく)・雑穀(ざっこく)・水油(みずあぶら)・糸、五品江戸廻送令

と覚えておきましょう。

 

まとめ

・五品江戸廻送令とは江戸に商品が来るように決められた商品を必ず江戸を経由するルール。

・五品江戸廻送令では生糸・米・水油・蝋・呉服の五品が対象となった。

・五品江戸廻送令は商人や外国の反対などで失敗に終わった。

・五品江戸廻送令が失敗に終わった後商人の価格が上昇して世直し一揆などが起きるようになってしまい、幕府の崩壊に拍車がかかってしまった。