みなさんは、承和の変という事件を聞いたことがあるでしょうか?

 

名前を聞いてピンとこない方や、他の事件と混同している方もいる方も少なくないと思います。

 

こうした○○の変という名前の事件は、とても多く混同しやすいので、一つ一つ正確に理解するのがとても大事です。

 

そこで今回は、『承和の変』の原因や内容・その後の影響などについて簡単にわかりやすく解説していきます。

 

また、承和の変の年号の語呂合わせの覚え方も紹介いたします。

 

承和の変とは?

 (藤原良房 出典:Wikipedia)

 

 

承和の変とは、平安時代初期の842年(承和9年)、天皇の皇位継承を巡り、藤原良房が有力氏族の伴健岑・橘逸勢などを排斥した事件です。

 

時の仁明天皇の皇太子は、恒貞親王が定められていましたが、良房は、自身の妹と仁明天皇との間に生まれた道康親王の皇位継承を望んでいました。

 

良房は恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢が恒貞親王を東国に移す画策を行っている旨を仁明天皇に伝え、仁明天皇によって伴健岑・橘逸勢らは逮捕され、謀反人として処分されました。

 

そして事件後、良房の望みどおり、道康親王は皇太子に立てられます。

 

承和の変が起こった背景や原因

 

次に、承和の変の背景・原因について見ていきましょう。

 

①薬子の変

平安時代初期の810年(弘仁元年)、朝廷では平城上皇が再び天皇位に復位を試み、時の天皇である、嵯峨天皇と対立しました。

 

 

(嵯峨天皇 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、嵯峨天皇側がこの試みを打ち砕き、平城上皇は出家して決着します。

 

この事件は、平城上皇の愛妾である藤原薬子などが関与したことから「薬子の変」と呼ばれています。

 

薬子の変の後、嵯峨天皇は実子を皇太子とせず、嵯峨天皇の異母弟である大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟としました。

 

これは嵯峨天皇自身が平城上皇に実子がいるのにかかわらず、皇太弟に擁立された経緯があるため、実子を皇太子にすることを憚ったと考えられています。

 

結果的に、この皇太弟擁立が承和の変の遠因となっていきます。

 

 

淳和天皇、仁明天皇の即位

823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は大伴親王に譲位して淳和天皇が即位し、皇太子として嵯峨天皇の実子である、正良親王(後の仁明天皇)が定められました。

 

その後、833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。

 

 

(参考)天皇家略図(番号は図中の即位順)

 

-平城天皇①-阿保親王 

-嵯峨天皇②-仁明天皇④(正良親王)-文徳天皇⑤(道康親王、※母は藤原良房の妹)

-淳和天皇③(大伴親王)-恒貞親王

 

 

③藤原良房の台頭

810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所が令外官として設置され、蔵人頭に藤原北家の藤原冬嗣が就任しました。

 

 

(藤原冬嗣 出典:Wikipedia)

 

 

冬嗣は時の天皇である嵯峨天皇に仕え、嵯峨天皇との結びつきを深めていました。

 

そして、冬嗣の子である藤原良房も嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。

 

また、良房の妹は仁明天皇の后となっており、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになりました。

 

承和の変の勃発

 

840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には嵯峨上皇も重い病に伏しました。

 

こうした状況に危機感を持ったのが、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑・橘逸勢でした。

 

彼らは恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しました。

 

しかし、阿保親王はあろうことか、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。

 

皇太后はこれに驚き、良房に相談。良房は仁明天皇に伝えるという事態に発展します。

 

842年(承和9年)7月、嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。

 

そして仁明天皇は詔を発し、伴健岑・橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。

 

また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。

 

これが世にいう承和の変です。

 

承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。

 

また、承和の変の意義として平城・嵯峨・淳和と続く天皇位の兄弟による継承を解消し、嵯峨・仁明・文徳と続く直系の皇統を成立させた点も挙げられます。

 

年号の語呂合わせは、「良房の842(野心に)脱帽、承和の変」と覚えてみましょう!

 

承和の変のその後の影響

 

承和の変の後、藤原良房は大納言に昇進し、良房の望んだとおり道康親王が皇太子に立てられました。

 

良房は承和の変によって、有力氏族である伴氏(大伴氏)と橘氏に大きな打撃を与えるなど、藤原北家のその後の勢力拡大につながる事件となりました。

 

その後、良房はこの事件を契機として、その権力を確立して昇進を重ねていき、後の清和天皇の時代に臣下として初めての摂政となるなど、後の摂関家・藤原氏の繁栄の基礎を築いたと評価されています。

 

藤原北家は、良房以降、藤原氏の氏長者として一族の中心となり、多くの摂政・関白を輩出する家柄となりました。

 

藤原北家は天皇の后に藤原の娘を嫁がせ、天皇の外戚としての地位を利用し、摂政・関白として朝廷の政治の実権を握っていきます。

 

特に、平安時代後期の藤原道長の代にその権勢は最盛期を迎えました。

 

 

(藤原道長 出典:Wikipedia)

 

まとめ

 承和の変は、天皇の皇位継承を巡り、藤原良房が有力氏族の伴健岑、橘逸勢などを排斥した事件のこと。

 承和の変の前、仁明天皇の皇太子には恒貞親王がいたが、良房は自身の妹と仁明天皇の間に生まれた道康親王の皇位継承を望むようになった。

 淳和上皇が崩御し、嵯峨上皇も重い病に伏すと、恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を持ち、恒貞親王を東国へ移すことを画策。

 この計画の相談を受けた阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后に伝え、皇太后は良房に相談し、良房は仁明天皇にこれを伝えた。

 842年(承和9年)、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕し、謀反人として処分した。

 事件後、道康親王は皇太子に立てられた。




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