“五人組”というと・・・・「あ〇し」や「ももク〇」のようなグループ?

 

も浮かびますが、残念ながら歴史の中の“五人組”はそんな素敵グループではありませんでしたね。

 

今回は、この『五人組』の内容について詳しく見ていきたいと思います。

 

五人組とは?

 

五人組とは、江戸時代に幕府が町や村に作らせた近隣5家1組の組織のことです。

 

この組織は年貢の徴収、犯罪取り締まりなどで連絡責任を負わせると共に、相互の組での協力体制や監視体制を作り上げていました。

 

五人組の歴史

 

江戸時代に作られた“五人組”ですが、この前身ともいえる制度は古代からありました。

 

厳密にいうと全く同じではないですが、ここでそれぞれの制度をみていきましょう。

 

①五保の制(ごほのせい)

中国の制度にならって大化の改新以後、大宝令など律令制度の中で設けられた末端の行政組織になります。

 

5家(5戸)を1保という単位にして、保長というリーダーがいました。

 

互いに見張る警察的組織でもあり、口分田の耕作を協力する、租や調の税を代わりに納める、なども行っていたようです。

 

律令制度の衰退とともにこの制度も廃れていきました。

 

十人組

一般的に言われる“五人組”は江戸時代の組織を指しますが、その前組織として、戦国時代に農民の自衛組織としての”五人組“が存在していました。

 

これを豊臣秀吉が制度化し、武士は”五人組“農民は”十人組“として掟を作って運用していったそうです。

 

これを引継ぎ整備していったのが、江戸期の“五人組”なのです。

 

伍長組・隣組

明治期に入ると、“五人組”を再編成した“伍長組“が組織されます。

 

「伍長」という言葉自体は軍隊の階級の一つにも使われていますが、古代中国の軍隊が最小単位を5人にしていたことが由来のようです。

 

この組織が戦時中の隣組にも繋がっていきます。

 

いずれも近隣の家を5組や10組ずつ1つのグループにまとめて組織していました。

 

ちなみに現在の「隣保班」や「組」などと呼ばれる地域の組織はこの流れですね。

 

五人組の形成と役割

 

ここで、五人組がどのように形成され、運用されたのか詳細を確認しましょう。

 

農民の種類

江戸時代の身分制度である【士農工商】は有名ですが、「農民」といっても身分に違いがありました。

 

田畑を所持し「検地帳」に記載されている【本百姓】、田畑を持たず日雇い農業をする【水のみ百姓】、本百姓に仕える隷属農民などです。

 

一般的に「農民」として呼んでいるのは【本百姓】のことで、この中で五人組はつくられました。

 

農民の組織

有力な本百姓は村の代表である【名主(“庄屋”や“肝煎”とも地域により呼び方が違う)】となり、その補佐役を【組頭】、名主と組頭の監視を【百姓代】が行います。

 

彼らは「村の三役」と呼ばれ、その土地を支配する領主とその下の役人である代官のもと、村の自治を行い、年貢を徴収して幕府や藩に納めていきました。

 

③治安維持

五人組は元々キリシタンや盗人、浮浪人の発見など、組内に幕府から追われているものがいないか、または犯罪が起きないように互いに見張るといった警察的要素が非常に大きく、犯罪人が組内で出た場合は連帯責任を負わされました。

 

④相互補助と監視

その後、五人組では「幕府の決まり」を守ることや年貢の納入がきちんと行われているかを確認し、組内で年貢が払えない家があれば、他の家で負担するなどの共同責任を負わせるようになりました。

 

農作業など組内の諸作業を協力しながら進めることが出来るというメリットもありましたが、1つでもキチンと出来ない家があると、他の家が大きな迷惑を被ることになるため、やはり連帯責任のデメリットの方が大きかったと思われます。

 

また逆に他の組にいる犯罪者などを報告すれば褒美がもらえるとなっていたため、それぞれの組同士で監視しあえるようになってもいました。

 

いずれにしても支配する側の幕府にとって非常に都合のよい組織だったと考えられます。

 

五人組と村八分

 

“人様に迷惑をかけてはいけないよ”という言葉はよく聞きますね。

 

この言葉が生まれたのはこの制度からかもしれません。

 

①五人組帳

【五人組帳】とは五人組が遵守するきまりを記載して組員に連判した帳面のことです。

 

この記載した“きまり”は、幕府の「慶安の御触書」を要約したものやそれぞれの村落の掟などで、名主などの役人も署名したと言われています。

 

中には虚偽の内容が記載されたものもあったようですが、この帳面に連判したことで五人組の責任は重く厳しいものになり、それを守らないことがどれだけ他の人にかけるかということは想像できますね。

 

②村八分

五人組帳に記載された掟や、村のしきたり、寄合で決まったこと等を破ってしまった場合、”村八分“という制裁的な罰がありました。

 

実際は村の10ある付き合い(冠・婚・葬・火事・病気・建築・年忌・水害・出産・旅行)の内「葬式と火事以外には協力しない」という罰だったので、8の付き合いがなくなるというものでしたが、この罰が与えられると村落生活が困難になり、その村にいられなくなるという状態だったようです。

 

後になって個々の家での生計が出来るようになると共に、この罰は大きく人権を損ねるとして、あまり聞かれなくなりました。

 

ところが近年にもこの問題が起こっています。

 

昭和に起きた静岡県富士市の事件や平成に起きた奈良県天理市の事件、特に天理市の事件では葬式も来なかったというので8分よりさらに酷いものでした。

 

様々な組織

 

五人組同様の農民統制の制度としては、キリスト教禁止のために行った“宗門改帳(しゅうもんあたらめちょう)“を発行した「寺請制度」もありました。

 

 

宗派別に寺が作成したこの帳面は当時の戸籍のような役割もしていたようです。

 

また、少し意味の異なる組織として「株仲間」がありました。

 

 

これは商工業者の同業者組織であり、幕府や藩に営業独占の権利を認めてもらう代わりにお金を納めていました。

 

時代劇などの出てくる〇〇屋などが代官様に黄金のお菓子をお渡ししたりしたものでしょうか…

 

ちなみに田沼意次はこれを奨励し賄賂政治などと言われてしまいましたが、清廉なイメージの水野忠邦は解散を命じていましたね。

 

まとめ

 “五人組”は農家を5戸1組としたグループ制度。

 “五人組“は田畑を持っている「本百姓」で形成されていた。

 有力な本百姓は“五人組”を取りまとめ、村の自治を行う名主や組頭、百姓代という村の三役となっていた。

 “五人組”は当初犯罪者やキリシタン取り締まりの警察的役割が大きかった。

 「五人組帳」に連判することで五人組の責任は重くなっていた。

 五人組では年貢の納入や犯罪防止など幕府や村落の決まりを遵守させられた。

 きまりを破った場合は村八分という厳しい罰が与えられた。

 ”五人組“は後に戦時中の隣組や近年の隣保班などに繋がっている。

 人権侵害とされた「村八分」は近年もまだ地方都市で実際に起こっている。




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