日本と中国は1920年から急速的に関係が悪化していきます。
その理由は中国の思惑と日本の思惑がかなりかけ離れていました。
そんな時に起こった事件が『山東出兵』。この当時中国は蒋介石によって中国統一を目指していました。
今回は、山東出兵と出兵を行う原因となった北伐とその当時の中国の実情について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
山東出兵とは
山東出兵とは、1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)までに3回起こった、日本が中国山東省に出兵したことをいいます。
出兵の目的は中国にいた日本人を保護するため。この山東出兵が起こる前には、蒋介石率いる国民革命軍が中国統一を目的とした北伐を開始していました。
まずは、山東出兵が起こるまでの流れを説明していきます。
北伐開始と中国の実情
①辛亥革命と第一次国共合作
(孫文 出典:Wikipedia)
1912年、中国では孫文が漢民族による共和国樹立のために辛亥革命を起こして清朝を打倒して新たに中華民国を成立しました。
しかし、清朝の軍閥の一人袁世凱が第二革命によって孫文を倒し、新たに中華帝国を設立して孫文は日本に亡命してしまいます。
袁世凱は自ら皇帝になって清朝時代のほとんど変わらない政治をしていました。
もちろん孫文はそれを気に入らない。孫文は日本でじっくり革命の機会を狙っていました。
そんな時にとある政党が中国で躍進していました。その政党の名は中国共産党。今の中華人民共和国で独裁政治をしている政党です。
そもそもこの当時中国は袁世凱が亡くなり、それに合わせて元々袁世凱に反抗していた軍閥たちが乱立して分裂していました。
孫文はこの中国共産党と一応手を組んで、袁世凱の跡継ぎの段祺瑞を倒そうとしました。これを第一次国共合作といいます。
②上海クーデターと北伐
(蒋介石 出典:Wikipedia)
1925年、辛亥革命を成し遂げた孫文がなくなります。孫文の後を継いだのは蒋介石でした。
後を継いだ蒋介石は国民革命軍という軍を組織して、段祺瑞をはじめとした軍閥を倒し孫文がつくった中国国民党による中国統一を成し遂げようと北伐を開始します。
北伐は順調に進んで1927年ついに南京と上海を占領します。
しかし、そんな時に国民党員が南京にいたイギリスとアメリカと日本の領事館を襲撃して、そこに働いている人を殺してしまいます。
もちろんこれらの国は大激怒。下手すれば再び列強の介入が待っています。
そこで、蒋介石はこの襲撃を中国共産党のせいにして上海から共産党を追い出すことにします。結果、国民党の責任を全て共産党に押し付けることに成功しました。
この上海クーデターと呼ばれる事件によって第一次国共合作は終わり、新たに南京を首都とした中華民国国民政府を作ります。
北伐の日本の対応と幣原外交
(幣原喜重郎 出典:Wikipedia)
①若槻内閣の総辞職
北伐によって日本の領事館が襲われて死者を出す事態になりました。
同じく被害を受けたイギリスやアメリカは中国に圧力をかけますが、日本は圧力をかけることはありませんでした。
この当時の外務大臣は幣原喜重郎という人で幣原外交を展開していました。
幣原外交は武力ではなく、あくまでも話し合いで解決してなんとかことを収めましょうという考え方です。
しかし、この考えはとある二つの組織から反感を買っていました。その二つの組織が枢密院と軍部でした。
枢密院はこのままでは中国に作った日本の会社(在華坊)と、中国に住んでいる日本人を守れないと主張して中国に派兵を要求していました。軍部も同じ考えです。
そんな時に内閣を潰すために当時起こっていた金融恐慌の取り付けをしないと決めてしまいます。
その結果、めちゃくちゃになった若槻内閣は総辞職します。そして内閣は元軍人の田中義一に移りました。
山東出兵の開始!目的と経過
①山東出兵へと1回目の出兵
田中義一は総理となった途端に中国に住んでいる日本人の保護のために山東省に出兵しました。
さらにあわよくば・・・日本の中国における権益を拡大したい思惑もありました。
しかし、蒋介石が北伐を中断したことによって山東から撤兵しました。
②2・3回目の派兵と済南事件
日本は一年後また中国軍による日本人の迫害を保護する名目で山東省に出兵しました。
そして、済南と呼ばれる場所で日本軍が駐留していました。
しかし、その時とある国民党軍が日本人を虐殺してしまい、済南全域を占領します。
その結果、済南で日本軍とにらみ合っていた国民党軍と日本軍が衝突してしまいます。
これが済南事件と呼ばれるものです。この事件によって日本軍は500人、国民党軍は3600人の戦死者を出してしまいました。
この済南事件は日清戦争以来の軍事衝突で日中戦争の前哨戦とも言われています。
山東出兵の影響
①張作霖の北京脱出と爆破事件
国民党軍はそのまま北ヘとどんどん進んでいき、ついには北京に迫る勢いになっていました。
ここにいたのは満州(中国東北部)を支配していた、奉天軍閥のリーダーの張作霖という人でした。
張作霖は日本とは仲良しで日本もこの人を利用して、中国の権益を確保しようと考えていました。
しかし、国民党軍が北京に迫っていると聞いた張作霖は北京を捨てて本拠地である奉天に帰ってしまいます。
日本としたら、もし張作霖が国民党軍に負けて国民党によって中国統一させてしまったら、日本から見たら中国の権益が危なくなってしまいます。
そこで満州にいた関東軍は張作霖がその時乗っていた列車を爆破して、張作霖を殺してしまいます。これが張作霖爆破事件です。
この事件によって日本は中国東北部を手に入れると思いきや、張作霖の息子である張学良が国民党軍に降伏して日本が恐れていた中国統一を成し遂げさせてしまいます。
その後、日本と中国の関係は冷え切ったまま満州事変が起きてしまうのです。
②日本の対応
山東出兵や張作霖爆破事件以降、日本はこれまで日本が行ってきた幣原外交みたいな平和路線ではなく、武力を使ってなんとかするという考え方に変わっていきます。
その結果、政府と軍部の間で溝ができてしまい、軍部がどんどん暴走していくことになるのです。
まとめ
・山東出兵は中国にいた日本人を保護するために出兵したこと。
・この当時、中国では蒋介石率いる国民党軍が北伐を行なっていた。
・山東出兵によって済南事件などの国民党軍との軍事衝突が起こってしまった。
・山東出兵を見て北京を脱出した張作霖は関東軍によって爆破され、中国は国民党によって統一された。
・山東出兵の結果この先どんどん軍部が暴走していくきっかけとなってしまった。