【サンフェリペ号事件とは】簡単にわかりやすく解説!!原因や内容・その後など

 

秀吉がキリシタンを処刑するきっかけになったサンフェリペ号事件。

 

『スペイン人が日本を征服しようとしている。』そんな根も葉もない噂が秀吉の恐怖心を増長させ、悲しい結末を迎えてしまった事件です。

 

今回は、そんな『サンフェリペ号事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

サンフェリペ号事件とは 

(スペイン船 出典:Wikipedia

 

 

1596年(文禄5年)、多くの貿易品を積んで、フィリピンのマニラからメキシコへ向かっていたスペインサンフェリペ号が台風に遭い、土佐(高知)に漂着。

 

その時、南蛮貿易の商売敵であるポルトガル人が『スペイン人は日本を征服しようとしている』と秀吉へ告げ口したことで、秀吉はキリスト教に強い脅威を感じるようになり、外国人宣教師と日本人キリシタン、合計26人を長崎で処刑してしまいました。

 

この一連の出来事をサンフェリペ号事件といいます。

 

サンフェリペ号事件の背景・原因

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia

秀吉とキリスト教

豊臣秀吉は、主君であった織田信長がそうであったように、初めのうちはキリスト教の布教を許していました。

 

しかし、大村純忠(日本最初のキリシタン大名)が長崎カトリック教会領としてイエズス会に寄進していたことやポルトガル人が日本人を奴隷として売買していることを知ると、キリスト教に脅威を感じ、警戒するようになりました。

 

秀吉は、信長が浄土真宗の信徒たちが起こした一向一揆で苦戦していたのを目の当たりにした経験もあり、一つの宗教を信仰するキリシタンたちが一致団結した際の力の大きさを想像するのは難しくなかったはずです。

 

バテレン追放令を発布

そして、1587年にキリスト教の布教を禁じ、外国人宣教師の国外追放を命じたバテレン追放令を発布しました。

(※バテレンとは来日したカトリックの宣教師のこと)

 

このバテレン追放令は、キリスト教を迫害するほど強いものではなく、どちらかというと“ゆるい”ものでした。

 

バテレン追放令では、布教を禁止しただけで、信仰までは禁止しませんでした

 

そして、秀吉は、貿易による利益を優先し、南蛮貿易(スペイン人、ポルトガル人との貿易)も奨励しました。

 

南蛮貿易を行うスペイン人やポルトガル人は、布教とビジネスが両方セットになっているので、結局、宣教師たちは日本にとどまり、キリスト教を信仰するキリシタンも増え続けました。

 

この頃、キリシタンの数は20万人にものぼったといいます。

 

秀吉は、南蛮貿易の利益のこともあり、それほど思い切った禁教策にはでませんでしたが、秀吉の心にキリスト教への不信感と恐怖心が芽生えたのは事実です。

 

この不信感と恐怖心は、1596年サンフェリペ号事件をきっかけにより巨大化し、キリシタンたちへの迫害へとつながります。

 

サンフェリペ号事件の内容

サンフェリペ号が土佐に漂着

15967月、多くの貿易品を積んだスペインのサンフェリペ号はフィリピンのマニラを出航し、メキシコへ向かいました。

 

その航海の途中、東シナ海で台風に遭遇。

 

サンフェリペ号は当時最大級の帆船でしたが、この台風でメインの柱が切り倒されるほど船にダメージをうけました。

 

そして、15968月、サンフェリペ号はなんとか四国の土佐沖に漂着しました。

 

大きな“南蛮船”漂着の知らせを受けた土佐の大名長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は乗組員たちを土佐の浦戸に収容しました。

 

(長宗我部 元親 出典:Wikipedia

 

②ポルトガル人の告げ口と乗組員の捨てゼリフ

元親からの報告を受けた秀吉は、家臣の増田長盛(ましたながもり)を派遣しました。

 

(増田 長盛 出典:Wikipedia

 

 

長盛は秀吉の命令どおり、乗組員たちの名簿を作り、積み荷の内容を書き記しました。

 

その際、秀吉からの書状も読まれました。

 

その内容は、「サンフェリペ号の乗組員であるスペイン人たちについて、都の数人のポルトガル人たちが、『スペイン人たちは海賊で、世界各国を征服している。あいつらは日本の征服も考えていて、測量に来たんだ。』と言っている。」と疑いをかけるものでした。

 

乗組員たちは、もちろん反論しましたが、結局、貿易品である積み荷と乗組員たちの所持品は全て没収されてしまいました。

 

その時、乗組員の一人が荷物を没収されたことに苛立ち「スペインは日本を征服するために宣教師を送り込んだ!日本もスペインに征服される!」といった暴言を吐き、これも秀吉に報告されたといいます。

 

ポルトガル人の告げ口も乗組員の捨てゼリフもその言葉の真意はわかりません。

 

ポルトガル人の告げ口は、南蛮貿易のライバルであったスペイン人を陥れようとしただけのもので、乗組員の捨てゼリフもその場の勢いで言ってしまった冗談だったのかもしれません。

 

しかし、彼らの言ってしまった言葉は、秀吉のキリスト教への不信感と恐怖心をあおるものになり、彼らにとって広い意味で同胞でもあるキリシタンたちの命を奪う結果となってしまうのです。

 

サンフェリペ号事件のその後

再び禁教令を発布

サンフェリペ号の漂着以来、秀吉はキリスト教による日本の征服を恐れるようになり、159612月にバテレン追放令に続き、再び禁教令を発布しました。

 

今度の禁教令は厳しいものでした。

 

秀吉は、石田三成に大坂や京都で積極的な布教活動を行っていた宣教師とキリシタンを逮捕し、長崎で磔(はりつけ)の刑にするよう命じました。

 

②二十六聖人の殉教

(26人の処刑を描いた版画 出典:Wikipedia

 

 

捕まえる対象になる人物は膨大な数にのぼりましたが、三成の計らいで大幅に減らすことができました。

 

しかし、6人の外国人宣教師と20人の日本人キリシタン計26人が捕らえられ、処刑地である長崎までの約千キロの道のりを約1ヶ月かけて、しかも極寒の中裸足で歩かせました。

 

その中の一人『ペドロ・バプチスタ』は秀吉から与えられた土地に病院を建て、重病の患者や貧しい人たちに治療を行っていた人物でした。

 

また、26人の中には、12歳と14歳の日本人の幼いキリシタンの少年もいました。

 

秀吉が、長崎までの道のりを約1カ月もかけてキリシタンたちに歩かせ、キリシタンの町として栄えていた長崎を処刑所に選んだのは、秀吉がキリスト教に対して寛大ではないことを、多くの人に知らしめるためだったといいます。

 

そして、159725日に26人は長崎の西坂に到着し、磔の刑に処されました。

 

キリスト教の信仰を理由に、日本の最高権力者が信者を処刑したのはこれが初めてで、この出来事は「二十六聖人の殉教」と呼ばれています。

 

※殉教とは、信仰のために自分の命をささげることを意味します。

 

まとめ

・スペインの商船サンフェリペ号は、フィリピンのマニラからメキシコへ向かう途中、台風に遭い、土佐沖に漂着した。

・サンフェリペ号事件は、ポルトガル人の告げ口と乗組員の暴言がきっかけで、秀吉が宣教師とキリシタン26人を処刑してしまった事件

・宣教師、キリシタン26人の処刑は「二十六聖人の殉教」と呼ばれている。

・キリスト教の信仰を理由に、最高権力者が信者を処刑した日本で初めての事件。