昭和の初めは社会不安や戦争など暗い出来事がたくさんありました。
のちに十五年戦争と呼ばれる戦争のスタート地点に当たるのが柳条湖事件です。
今回はそんな『柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
柳条湖事件とは?
(事件直後の爆破現場 出典:Wikipedia)
柳条湖事件とは、1931年(昭和6年)に満州(今の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)付近の柳条湖で日本が所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件です。
この事件がきっかけに、満州事変が発生しました。
実は、これは日本の現地駐屯軍が実行したのですが、中国軍の犯行とすることで国民感情を煽り、満州における軍事作戦と占領の口実としました。
このあと日本は戦争の時代に突入します。
柳条湖事件が起こった背景と原因
(南満洲鉄道本社 出典:Wikipedia)
①満州を巡る問題
1928年(昭和3年)満州の実力者、張作霖を日本軍は爆殺します。(張作霖爆殺事件)
その息子の張学良は抗日独立派となり、満州で日本排斥運動が激化。1930年(昭和5年)、張学良は南満州鉄道(満鉄)への対抗策として、満鉄の路線と並行した路線を建設します。
この結果、満鉄は創業以来の経営不振に陥り、赤字に陥りました。
ちょうどそのころは1929年(昭和4年)にアメリカで始まった世界恐慌が日本にも波及してきていた時期で、国内の他の産業・企業でも経営が悪化し、倒産や失業者の増加が社会問題になっていました。
また米が豊作になったため価格が下落し、地方の農村でも経済的に深刻な状況になっていたのです。これを昭和恐慌と言います。
加えて、満州は日露戦争以来の日本人が血を流して獲得した地域だと考えられており、満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線だという認識が持たれていました。
当時は朝鮮半島も日本領になっていましたので、朝鮮に隣接する満州は日本にとっても重要な地域だったのです。
特に満州に渡った朝鮮人と現地住民の間で対立が起きるなど、日本と満州の間では一触即発の危機がありました。
②関東軍の謀略
日露戦争のポーツマス条約でロシアから譲渡されたリャオトン半島と満鉄、そして満鉄に付属する土地を守るために現地に派遣されたのが関東軍です。
「関東」というのはリャオトン半島を含む満州地方を指す地名で、日本の関東地方とは関係がありません。
山海関という万里の長城の端に当たるところの東側にあるので関東州と呼ばれていました。
関東軍には対ソ連の意味合いもあり、日本軍の精鋭部隊が派遣され、「泣く子も黙る関東軍」と言われるほど恐れられたのです。
その関東軍に二人の参謀「石原莞爾」「板垣征四郎」がやってきます。
この二人によって柳条湖事件が計画・立案されました。
特に石原莞爾は「世界最終戦争論」という考え方を持っており、これは『西洋の代表であるアメリカと東洋の代表である日本が最終戦争を行い、勝ったほうが世界の覇権国となる。そうなることで以後戦争はなくなる』という考え方でした。
(石原莞爾 出典:Wikipedia)
日本にはアメリカと戦えるだけの物資や資源を得る必要があり、そのため日本による朝鮮や中国支配を正当化しようとしたものでした。
また、これはソ連が力を持つ前、かつ中国とソ連の関係が悪い間に行うべきだと考えていました。
柳条湖事件の発生と経過
1931年(昭和6年)9月18日夜、柳条湖で満鉄の線路が爆破されます。
まもなく関東軍は中国軍の犯行と発表。日本国民は太平洋戦争終結までこれを信じていました。
爆破そのものはごく小規模なもので、直後に急行列車が通過しても無事でした。
これは線路の破壊よりも爆音を発生させることが目的だったからだと言われています。
(当時物証として示された中国軍の帽子と小銃 出典:Wikipedia)
付近で演習をしていた日本軍部隊は爆音を聞き、関東軍本部に報告。本部にいた板垣は中国軍への攻撃を命令します。
このとき張学良は精鋭を率いて北京に滞在しており、満州にいた中国軍はわずかでした。
その後、関東軍は朝鮮にいる日本軍にも応援を依頼。本来、国境を越えた出兵は軍の統帥権を持つ天皇の裁可が必要でしたが、それを無視した形でした。
翌日、朝鮮の日本軍は国境の鴨緑江を渡り、関東軍の指揮下に入りました。
同じ日、満州南部の主な都市は全て日本軍の占領下に入ります。
柳条湖事件への各国の対応
①日本政府の対応
中国側は事件に対して無抵抗主義を伝えてきていました。
これらは張学良が万一のときはそうするように指示を出していたからです。
当時の日本の首相は若槻礼次郎。柳条湖事件の発生を受けて、若槻内閣は閣議で事変不拡大の方針を取ります。
(若槻礼次郎 出典:Wikipedia)
これは昭和天皇にも奏上されました。
しかし、陸軍の一部はこの決定に不満を持ち、なんとかしてさらなる軍隊の派遣を画策し始めました。
そんなとき朝鮮にいた日本軍が鴨緑江を渡ったという知らせが入ります。若槻首相は陸軍の動きを止めようとします。
本来、独断越境は死刑に匹敵するくらいの罪です。
しかし、最終的に若槻内閣は陸軍の要求を拒むことができず、越境とそのための戦費支出を事後承認することになりました。
日本国民は、これまでの満州における日本人と中国人の対立や経済状況に対する不満があったため、関東軍を熱狂的に支持しました。
②中国と諸外国
当時の中国は分裂状態にありました。
満州は張学良、他は蒋介石が支配しており、蒋介石も中国共産党との戦いがあったため、日本軍との衝突は避けようとします。その代わり、国際連盟に提訴しました。
しかし、国際連盟では中国の共産主義やナショナリズムのほうがより脅威と考えていたため、日本の軍事行動に対して何も決定を行いませんでした。
一方、満州での日本の事変拡大は中国民衆の反日感情をかき立てました。
いたるところで「抗日救国」が叫ばれるようになり、抗日義勇軍ができ、日本商品に対するボイコット運動も起きました。
柳条湖事件のその後
(関東軍による侵攻 出典:Wikipedia)
①満州事変の発生を満州国の建国
柳条湖事件は満州事変へと拡大。翌1932年(昭和7年)2月には全満州を占領します。
この間、1931年(昭和6年)12月に若槻内閣は閣内不一致で退陣し、その後を犬養毅が継ぎました。
そして、関東軍は満州から張学良を追い出し、清朝最後の皇帝だった溥儀を担ぎ出します。
彼を執政として満州国を建国。
犬養内閣は満州国の承認を拒否しますが、五・一五事件で犬養首相が暗殺されると、次の斎藤実首相は軍部の圧力と世論の突き上げに屈して満州国を承認しました。
こうして本国の意向を無視した現地軍の独断行動が結果的に認められたことで、軍中央も現地軍のコントロールができなくなっていきます。
また、内閣も軍部の意向に逆らえなくなり、日本は軍国主義の道を歩むことになりました。
②国際連盟の対応
国際連盟も当初は日本の行動を自衛的なものととらえ好意的でしたが、日本の占領地域が広がっていくと態度を変えます。
アメリカは日本の行動を非難するようになり、国際連盟はイギリスのリットン卿を満州に派遣します。
これがリットン調査団です。
調査団は日本の満州における権益を認めながらも、軍事行動は自衛と認められないと結論づけました。
この報告書の決議を巡り、日本は国際連盟を脱退することになります。
こうして日本は国際的に孤立する存在となり、第二次世界大戦への道を突き進むことになりました。
まとめ
✔ 柳条湖事件とは南満州鉄道が爆破された事件のこと。
✔ 関東軍は中国軍の犯行と発表するものの実は関東軍が実行したことだった。
✔ これをきっかけに満州事変が発生、関東軍は満州全土を占領し、満州国を建国した。
✔ 内閣や軍中央は現地軍の暴走を止められなくなっていった。