古来日本の政治をやってきたのは天皇でした。
しかし、鎌倉時代になると武士が政治をしていくようになり天皇はお飾りと同じ状態になってしまいます。
そして明治維新になると政治は武士ではなく天皇がやろうという動きが出てきます。
今回は鎌倉時代から700年続いた武士の時代を終わらせた『王政復古の大号令』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
王政復古の大号令とは?
(中心人物となった岩倉具視 出典:Wikipedia)
王政復古の大号令とは、1868年(慶応3年)に公家である岩倉具視によって出された宣言のことです。
王政復古とは何かしらの理由で廃止されていた王政を復活させるということです。
ピューリタン革命後のイギリスのチャールズ2世やフランス革命後のフランスのルイ18世が有名ですね。
日本の場合は天皇の実権を復活させることでした。
王政復古の大号令を出した理由
(大政奉還図 出典:Wikipedia)
①徳川家の権力をなくすため
王政復古の大号令を出す前、徳川慶喜は大政奉還を出して幕府を終わらせました。
しかし、大政奉還を出したところで幕府がなくなるだけで徳川家自体の力はまだ残っていました。
慶喜は幕府がなくなっても天皇は権力はないから、結局は徳川家中心の政治体制になるのだなと思っていました。
さらにこの時薩摩藩と長州藩は朝廷から倒幕の密勅を出されており、幕府を潰せると思っていた長州藩と薩摩藩はこの大政奉還によって肩透かしをくらいます。
王政復古の大号令はこの状態を打開するために出されました。
②幕府から処罰された人々を許すため
長州藩は八月十八日の政変によって京都から追放されます。
さらに、三条実美ら尊王攘夷派の公家7人も追放されてしまいます。
そして長州藩は八月十八日の政変の弁明をするため京都に行きますが、禁門の変によって朝廷の敵である朝敵となってしまいます。
岩倉具視は長州藩を許し、朝廷の敵じゃないようにするために長州藩の藩主の毛利敬親や三条実美を赦免(許す)する事で徳川家を潰しやすい状態にしました。
王政復古の大号令の内容
王政復古の大号令の内容は主に4つありました。それぞれを見ていきましょう。
①大政奉還の時に出された将軍職辞職の許可
これは大政奉還の時に慶喜によって宣言された将軍職を辞めることを朝廷が許可したものです。
これによって江戸幕府は終わりを迎えました。
②京都守護職の廃止
京都守護職という役職は、京都の治安や尊王攘夷派の志士を取り締まるために幕府によって作られた役職のことです。
この時は会津藩の松平容保が務めていました。有名な新選組はこの役職の部下です。
この役職をなくすことによって京都における幕府の影響をなくそうとしました。
③幕府の廃止
朝廷はもう二度と武士が政治をすることができないように征夷大将軍の地位をなくして幕府を廃止します。
これによってこれまでなんだかんだで続いてきた武士の時代を強制的に終わらせようとしました。
④摂政・関白の廃止
幕府の廃止によって武士の時代は終わると思いますが、実はもう一つめんどくさい存在がいました。
それがかつて朝廷の権力を独り占めした藤原道長の子孫である五摂家(一条・二条・九条・鷹司・近衛)の存在でした。
もし武士の代わりにこいつらが政治をするようになったら平安時代中期に逆戻りです。
なので五摂家の力をなくすためにこれまで五摂家が務めてきた天皇の後見職である摂政と関白を廃止しました。
こうして天皇に権力が集中するようにしたのです。
幕府の代わりに三職を設置する
幕府がなくなったら別に新たな政治システムを作る必要があります。
そこで総裁・議定・参与という三職を作ります。
幕府の代わりに新たに・・・
- 総裁(幕府の将軍と同じポスト。有栖川宮熾仁親王が就任した)
- 議定(議員みたいなポスト。主に公家や皇族が就任した)
- 参与(議員と同じポスト主に薩摩藩と長州藩の人が就任した。)
という役職を作ります。
しかし、この三職は王政復古の大号令のために即席で作ったものなのであまり機能しませんでした。
王政復古の大号令の影響
①小御所会議
王政復古の大号令が出された直後についに朝廷は徳川家を本格的にぶっ潰すため小御所会議を行います。
小御所会議は三職が設置されて初めて行われた会議でした。
この時徳川家の対応について話し合っていましたが、なんとこの時そのメインの人である慶喜は出席していませんでした。
慶喜は三職のどこにもなることができなく、ただこの会議を指をくわえて見ていることしかできませんでした。
そして、この会議によって徳川家の辞官納地(役職をやめて領地を天皇に返す)ことが決められました。
②徳川家の反応
慶喜は大政奉還によって薩摩藩と長州藩による討幕の密勅を見事にかわすことができて、さらにフランスの援助も受けて一時は薩摩藩と長州藩を窮地に追い込むことができました。
しかし、王政復古の大号令が出されたことによってまた窮地に追い込まれます。
ただ、慶喜はとっても頭がいいです。慶喜は佐幕派(幕府を守ろうとした人達)の公家に頼み込んで王政復古の大号令の撤回を要求しようとしました。
また慶喜はアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの欧米の列強諸国を味方につけることに成功します。
しかし、朝廷はそれを黙って見ているはずがありません。
薩摩藩は慶喜を無理矢理戦争に引きずり込ませるために慶喜を挑発します。
見事慶喜は挑発に乗ってくれて京都郊外でついに鳥羽伏見の戦いが起きました。
この鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は見事に負けてしまい、ついに徳川家は朝廷の敵になってしまいました。
そして時代は江戸無血開城によって徳川家中心から天皇中心に移り変わっていくことになっていくのです。
王政復古の大号令の語呂合わせ
王政復古の大号令は1887年の出来事です。
徳川家"18"の人は半泣き"87"の王政復古の大号令
と覚えましょう!
まとめ
✔ 王政復古の大号令とは、1868年(慶応3年)に公家である岩倉具視によって出された宣言のこと。
✔ 王政復古の大号令の目的は徳川家の権力をなくしたり、朝敵とされた長州藩の人を許すこと。
✔ 王政復古の大号令によって武士の時代は終わりを迎えた。
✔ 王政復古の大号令によって三職が置かれて小御所会議が起こり、後に鳥羽伏見の戦いの原因にもなった。
▼王政復古の大号令についてもっと詳しく知りたい人はこちらの書籍がおすすめ!
【みんなの感想】
教科書で「最後の将軍」と学び、勝手ながら
新政府に敗北した負け将軍かと思っていましたが、
この本を読んで慶喜像を改めました。激動の時代に生きながらも周囲に担ぎ上げられるのではなく、
自分の判断と先見の明でその時代を生き抜いた生涯。
ドラマなどでは悪役が多くあまり良く映らない慶喜ですが、
本書ではまさに人間臭く魅力的な人物として描かれています。ただ、終盤の急ぎ足気味が残念でした。もう少し丁寧に見たかった。
徳川慶喜ほど、毀誉褒貶の激しい人物はいないと思います。
家康の再来とも言われ、鳥羽伏見の戦いでは自滅ともいえる惰弱な負け方を見せ、そして大河ドラマではたいてい悪役として扱われる。
しかし、権力闘争と列強の圧力にさらされる幕末で、幕府の頭領として新政府に引導を渡したこと。それは昭和の鈴木貫太郎と並び「敗北して国を救った英雄」と評されることではないでしょうか。
300ページに満たない小説ながら,徳川慶喜という「最後の将軍」についてその生涯と性格と悲運を余すことなく書き綴っている。
殿様なのに多芸多才な男。将軍就任を周囲に期待されながらも一瞬たりとも将軍になりたいとは思ったことのない男。その見事というほかない権謀術数の腕前から誰からも誤解され,孤立していく男。日本史上の最長不倒政権たる江戸幕府を自死させた男・・・慶喜という男の,劇的な前半生はどんなものであったろう。また,維新の後,歴史の表舞台から忽然と消え失せた男の胸中に去来するものは一体何であったのか?あとがきで司馬先生も書かれているが,徳川慶喜という人物のことをつらつら考えていくと想像は果てしなく広がって尽きることがない。(引用:amazonレビュ-)