【ノモンハン事件とは】わかりやすく解説!!事件発生の背景や経過・勝敗・損害など

 

1939年と言えば、ドイツがポーランド侵攻を敢行した年です。これをもって、第二次世界大戦が始まったとされます。

 

しかし、実は同じころに、現在のモンゴルと中国の国境付近で、日本とソ連も軍事衝突をしていました。

 

のちにノモンハン事件と呼ばれるものです。

 

今回は、そんな『ノモンハン事件』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

ノモンハン事件とは?

(ソ連軍の戦車の上で万歳三唱する日本軍 出典:Wikipedia

 

 

ノモンハン事件とは、1939年(昭和14年)5月~9月に満州国とモンゴルの国境付近で起こった日本とソ連の軍事衝突のことです。

 

満州国に駐屯していた日本の関東軍が大本営の方針に反して、独断で戦線を広げた結果、ソ連の戦車部隊の猛攻を受けて、壊滅的な被害を受けました。

 

同年8月にソ連がドイツと独ソ不可侵条約を締結したため、日本はこれ以上の戦闘続行は不可能だと判断し、作戦を中断した上で、916日にモスクワでソ連と停戦協定を結びました。

 

ノモンハン事件が起こった背景

(満州国とモンゴルの境界線の目印 出典:Wikipedia)

①満州国とモンゴルの国境問題

20世紀初めまで、現在のモンゴルや内モンゴル自治区がある地域一帯は、中国・清朝が治めていました。

 

その際、清はゴビ砂漠を境にして、この地域を内モンゴル(内蒙古)と外モンゴル(外蒙古)の二つに分けて支配しました。

 

1911年に起こった辛亥革命で清が打倒され、中華民国が建国されると、これまで清に支配されていた外モンゴルで独立運動が起こりました。

 

 

外モンゴルはソ連の後ろ盾を得て、モンゴル人民共和国として独立を果たします。

 

一方、内モンゴルは中華民国の領土として残りました。これによって、内モンゴルと外モンゴルの区分は、中華民国とモンゴルの国境になりました。

 

その後、1931年の満州事変を経て、1932年中国東北部に満州国が建国されると、内モンゴルは満州国の一部となります。

 

 

そのため、内モンゴルと外モンゴルの区分は、満州国とモンゴルの国境となりました。

 

ところが、内モンゴルと外モンゴルの境目は、もともと単なる行政区分であったため、明確な取り決めがありませんでした。

 

これが満州国とモンゴルの国境問題を引き起こすことになります。

 

②日本とソ連の対立

満州国とモンゴルにはそれぞれ建国時から後ろ盾となる大国が存在していました。

 

満州国の場合は日本、モンゴルの場合はソ連です。

 

1932年に建国された満州国は、辛亥革命を逃れてきた清朝最後の皇帝・溥儀が執政(1934年から皇帝)として治めた国ですが、これが日本の傀儡国家にすぎないことは当時から国際的に知られていました。

 

そのため、国際連盟も満州国を独立国家として認めませんでした。

 

満洲国は、日本にとっては中国大陸に進出する足がかりとなる重要な国でした。

 

他方、辛亥革命に乗じて独立宣言をしたモンゴルは、ソ連の軍事力の助けを借りて中華民国から独立し、ソ連に次ぐ社会主義国となりました。

 

しかし、これも事実上はソ連の傀儡国家でした。

 

ソ連にとっては、中国東北部(満州)、朝鮮半島へと進出する政策の一環だったのです。

 

こうした事情から、満州国とモンゴルの国境問題には、はじめから日本とソ連の軍事衝突につながる可能性がはらまれていました。

 

ノモンハン事件の経過

(ノモンハンの高原を進軍を日本兵 出典:Wikipedia)

 

 

ノモンハン事件の舞台となったハルハ河沿岸の町ノモンハンは、満州国とモンゴルの国境付近にありました。

 

このあたりでは、1935年ごろから満州国とモンゴルの間で、国境をめぐる紛争が多発していました。

 

①張鼓峰事件の発生

1935年ごろから続いていた満州国とモンゴルの間の紛争は、19387月~8月に起きた満州国東部国境の張鼓峰での大規模な武力衝突(張鼓峰事件)で、一気に緊張が高まりました。

 

事件の発端は、1938711日にソ連が張鼓峰頂上を突然占拠し、陣地を作り始めた出来事にありました。

 

当時、張鼓峰は満州国・朝鮮・ソ連の国境付近にあり、満州国とソ連の2国が自国の領土であると主張していました。

 

それに加えて、1936年の日独防共協定締結以来、ソ連は日本に対して強硬な政策をとるようになっていました。

 

日本はソ連のこの一方的な張鼓峰占拠に対して、重光葵駐ソ大使を通じてソ連に撤退を求めましたが、ソ連はこれを拒絶。

 

 

(重光葵 出典:Wikipedia)

 

 

そのため、日本は朝鮮に駐屯していた1個師団と関東軍の一部を動員して、7月下旬~8月上旬にかけて、ソ連との間で大規模な戦闘を行いました。

 

しかし、結果は惨敗に終わります。

 

ソ連軍は戦車を主力とした機械化部隊で日本軍に大きな損害を与え、撃退。日本がソ連との圧倒的な軍事力の差を知ったのは、このときでした。

 

この敗北を受けて、重光駐ソ大使はソ連のリトビノフ外務人民委員と協議し、810日に停戦協定を結び、事実上ソ連の主張するとおりの国境を認めます。

 

この一連の出来事は、1年後に起こるノモンハン事件の前哨戦だったと言えます。

 

②日ソの強硬路線

1939年に入ると、モンゴルは国境警備をいっそう強化するようになります。

 

その背景には、ソ連とモンゴルの強気な姿勢がありました。

 

ソ連では、同年310日にモスクワで開かれた第18回共産党大会で、スターリンが侵略には2倍の反撃で応えると演説をしていました。

 

 

(スターリン 出典:Wikipedia)

 

 

また、同じころにモンゴルでは、かねてから消極的な国境防衛を批判していたモンゴル軍総司令官のチョイバルサン元帥が首相の座についています。

 

一方、日本側でも、425日に関東軍が「満ソ国境紛争処理要綱」という文書を作りました。

 

この文書には、関東軍が積極的に国境紛争を処理する方針が書かれており、張鼓峰事件のときのような日本政府の手ぬるい処置では、かえって国境紛争の拡大を防ぐことはできないという強硬な考え方が表れています。

 

具体的には、ソ連やモンゴルが国境を越えた場合には・・・

  • 周到な計画準備のもとで十分な兵力を用いて急襲し殲滅すること
  • そしてそのためには一時的にソ連領内に侵入してもよいこと
  • 国境線が明確でない地域については防衛司令官が国境線を認定してもよいこと

が書かれていました。

 

③ノモンハン事件直前の状況

満洲国北西部のノモンハンには満洲国国境警察隊分駐所があり、満州国側がモンゴルとの国境とみなしている南西15キロのハルハ河までの間を巡回警備していました。

 

他方、モンゴル側の警備哨所は、ハルハ河の西岸にありましたが、1935年ごろから歴史的根拠をもちだして、満州国との国境はハルハ河の東方にあると主張し、頻繁にハルハ河の東岸に兵を送り込んでいました。

 

ノモンハンとハルハ河の間は、満州国とモンゴルの双方が自国領だと主張していたので、どちらか一方がこの地域に入れば、もう一方はそれを国境侵犯だと判断していました。

 

④ノモンハン事件の発生

5月12日、ハルハ河を越えてノモンハン付近までやってきたモンゴル軍が、この地域を警備していた満州国軍と軍事衝突する事件が起きてしまいます。

 

これがノモンハン事件の始まりです。

 

この知らせを受けると、内モンゴルの警備を担当していた23師団の師団長・小松原道太郎中将は、満ソ国境紛争処理要綱に基づいて、ただちに部隊を派遣してモンゴル軍を撃退。

 

 

(小松原道太郎 出典:Wikipedia)

 

 

15日には、モンゴル軍がハルハ河西岸まで退却したので、派遣されていた部隊は帰還しました。

 

⑤ノモンハン事件の進展

ところが、その後モンゴル軍と駐留ソ連軍が兵力を増強して、再びハルハ河を越え、東岸に陣地を築き始めました。

 

これを受けて、第23師団も再び部隊を派遣しましたが、今度はソ連が戦車、銃砲、飛行機を大量に配備していたため、逆に日本側が反撃を受けます。

 

 

(ソ連軍の戦闘機 出典:Wikipedia)

 

 

そこで、関東軍司令部はソ連軍を撃破するという強硬策を決定し、航空部隊によるモンゴル軍後方基地の爆撃に続いて、72日に第23師団が攻撃を開始。

 

しかし、第23師団はソ連の戦車部隊の猛攻に遭い、苦戦を強いられました。

 

もともと日中戦争の最中でもあったため、この事件が日ソ戦争に拡大することを恐れた大本営は不拡大方針を決めます。

 

 

こうして日本政府も外交による平和的解決を目指す方針を定めたのです。

 

しかし、関東軍はこの不拡大方針を無視。再度ソ連軍撃退のため、攻勢をかけ続けました。

 

結局、820日にソ連軍が戦車を主力とした大兵力を集中させて総攻撃を行ったため、23師団は壊滅してしまいます

 

⑥ノモンハン事件の終結

その後、823日にドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結し、さらに91日にはドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、93日に大本営は関東軍に対して作戦中止を命じました。

 

 

世界情勢が大きく変わり、日本はソ連に対して軍事力を割く余裕がなくなってしまったのです。

 

そして、99日に日本政府はソ連政府に停戦を申し入れ、同16日にモスクワで停戦協定を結びました。

 

これにより、ノモンハン事件は終結しました。

 

ノモンハン事件の勝敗と損害

(ソ連の捕虜となった日本兵 出典:Wikipedia)

 

 

ノモンハン事件は、完全に日本の大敗でした。

 

敗戦したのは、ソ連軍の戦車を主力とした機械化部隊の猛攻に苦戦したのが原因です。

 

日本側の被害は甚大で、ソ連軍に包囲された第23師団のほとんどの部隊が全滅し、第一戦車団も大きな損害を受けました。

 

戦死者や負傷者の正確な数は分かっていませんが、日本陸軍の当時の調査によれば、6月以降の衝突で、満州国軍を除く部隊の戦死者・行方不明者は8717名、負傷者は10997名に上ったとされています。

 

まとめ

 ノモンハン事件とは、1939年5月~9月に満州国とモンゴルの国境付近で起こった日本とソ連の軍事衝突のこと。

 満州国に駐屯していた日本の関東軍が大本営の方針に反して、独断で戦線を広げた。

 その結果、ソ連の戦車部隊の猛攻を受けて、壊滅的な被害を受けた。

 ソ連が8月にドイツと独ソ不可侵条約を締結したため、日本はこれ以上の戦闘続行は不可能だと判断し、作戦を中断した。

 日本とソ連は9月16日にモスクワで停戦協定を結んだ。