戦国武将の中でも知将として知られる武田信玄

 

晩年には三河国に攻め入り、織田信長と同盟を結んだ「徳川家康」を追い詰めるものの、本人が急死したことにより、その野望を果たすことはできませんでした。

 

もし武田信玄がそこで死ななければ、いったい日本の歴史はどうなっていたのでしょうか?

 

今回は、もし武田信玄が長生きしていたら、歴史がどうなっていたのかを徹底予想していきます。

 

もしも武田信玄がいなかったら、その後の日本はどうなった?

 

甲斐・信濃を拠点とした武田信玄は、史実によれば、晩年に信長包囲網を形成し、遠江国三方ヶ原で織田・徳川連合軍を破るものの、陣中で病を得てそのまま病死しました。

 

これにより、武田軍は撤退を余儀なくされ、家康を滅ぼすことができませんでした。

 

もしこの時信玄が死んでいなければ、武田軍は家康を徹底的に攻め、家康の所領である三河国・遠江国を支配下に置くことができたはずです。

 

その場合、信玄の死後も、武田家の勢力はしばらく衰えることがなく、武田家が衰退するきっかけとなった長篠の戦いも起こらなかったかもしれません。

 

織田信長・徳川家康との対立まで

 

まずは史実にしたがって、織田信長・徳川家康との対立が全面的になるまでの武田信玄の生涯を確認しておきましょう。

 

①武田家の家督相続から信濃国への進出まで

武田信玄1521年、甲斐国を本拠地とする戦国大名・武田信虎の長男として生まれます。

 

(武田信玄 出典:Wikipedia)

 

将来は家督を継ぐことを期待され、若くして信濃守に任命されます。こうして信玄はしばらく信虎のもとで力を尽くすことになります。

 

ところが、信虎が暴政を振るったことで家臣団から見放されると、信玄は1541年に信虎を駿河国の今川義元のもとへ追放し、家臣団の信任を得て、自らが武田家の当主となりました。

 

そして、信玄はその直後から信濃国への進出を始め、信濃国の大名たちを打ち破り、領地の拡大に努めました。

 

この頃から、南下政策を進めていた越後国の戦国大名・長尾景虎(上杉謙信)とも衝突するようになりました。

 

②川中島の戦い

信濃国更級郡の犀川と千曲川の合流点である川中島で、1553年頃~1564年頃まで数度にわたり、武田信玄と上杉謙信との間で軍事衝突が起こりました。これをまとめて川中島の戦いと呼びます。

 

事の発端は、信玄に破れた北信濃の領主・村上義清が、信玄に対抗するべく謙信に頼ったことにあります。これにより、信玄対謙信という構図が生まれ、両者の間で少なくとも5度の合戦が行われました。

 

その中でも、156191日夜から翌2日午後にかけて起きた4度目の合戦は、「謙信自らが大刀で信玄を切りつけた」という伝説が残っているくらいの激しいものであり、今日では「戦国時代最大の激戦」として知られています。

 

結局、一連の戦いを経て、信玄は北信濃をほぼ掌中に収めるようになり、謙信との争いの舞台は北関東へと移っていきました。

 

③駿河国への進出と今川氏の滅亡

信玄は北条氏、今川氏と同盟を結び、北関東への進出を企てる一方で、飛騨・美濃にも進出し、さらに領地を拡大しました。

 

1567年に今川氏との同盟を破棄すると、その翌年に今川氏が勢力を有していた駿河に攻め入ります。

 

そして、1569年には今川氏真を追放し、駿河国を支配下に置くことに成功します。

 

なお、この時、三河国の戦国大名である徳川家康が遠江に進出したため、今川氏は領地を失い、滅亡してしまいます。

 

④北条氏との対立と和議の成立

信玄がかつて同盟を結んでいた今川氏が滅びるきっかけを与えたことに対して、北条氏が強く反発したため、信玄と北条氏との間で敵対関係が生じるようになりました。

 

その結果、信玄は北条氏の領地に攻め入り、北条氏の本拠地である小田原城を包囲したり、伊豆に侵攻したりするようになりました。

 

しかし、1571年に北条氏康の遺言により、信玄と北条氏との間で和議が結ばれると信玄は京都への進出を目指すようになります。

 

これにより、今度は織田信長・徳川家康との対立が前景化します。

 

【もし武田信玄が長生きしていたら?】織田・徳川軍との戦いを予想

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(三方ヶ原の戦いを描いた錦絵 出典:Wikipedia

①史実

京都進出を決めた信玄は1571年、謙信と断絶した北条氏政・越前国の朝倉氏・近江国の浅井氏・本願寺・一向一揆らと協調して、信長包囲網を作り上げた上で、翌1572年に遠江国・三河国への侵攻を始めました。

 

同年10月には、信玄自らが5万余の大軍を率いて甲府を出発しています。

 

12月には、家康の居城である浜松城の近くに位置する三方ヶ原で、信玄の軍勢が信長・家康連合軍を打ち破ります。これが三方ヶ原の戦いと呼ばれるものです。

 

その後、武田軍はさらに西に進み、家康側の城を次々と陥落させ、三河国の野田城を包囲しますが、その陣中で信玄は発病してしまいます。

 

そのため、信玄は甲府に帰ることを決意しますが、その途上の信州駒場でそのまま病死してしまいます。

 

これにより、武田軍は家康を攻め切れず、三河国を完全に掌中に収めることを断念するしかありませんでした。

 

②予想

もし信玄がこの時に死去していなければ、信玄率いる武田軍はさらに西へと侵攻し、家康を追放した上で三河国を完全に支配下に置くことができたはずです。

 

これにより、信玄は甲斐国・信濃国に加え、駿河国・遠江国・三河国という東海地方一帯を支配する、きわめて影響力の強い大名になったと考えられます。

 

信玄はその後、朝倉氏や浅井氏らとともに形成した信長包囲網を維持しながら、さらに西へと進み、信長の勢力を削ごうとするでしょう。

 

そのため、しばらく信長との緊張関係が続くと考えられます。

 

【もし武田信玄が長生きしていたら?】長篠の戦いを予想

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(長篠合戦図屏風 出典:Wikipedia)

①史実

1573年に信玄が没し、武田軍が撤退すると、家康は三河国の長篠城を奪還し、自らの家臣をその城主に据えました。

 

一方、武田家の新たな当主となった信玄の子・勝頼は、信玄が目指した三河国攻略の悲願を達成するため、1574年に遠江国へと侵攻を始め高天神城を陥落させ、さらに翌1575年に長篠城を包囲しました。

 

その報せを聞いた信長と家康は長篠城を救出するため、38千の大軍勢を派遣し、15千の武田軍と衝突しました。これを長篠の戦いと言います。

 

戦いの結果は、武田軍の大敗でした。武田軍は多くの武将を失い、急速に勢力を落とすことになります。

 

そして、この戦いで敗走した勝頼は、1582年の信長による甲州征伐によって追い詰められた結果、自害を決断します。こうして武田家は滅亡することになります。

 

 

②予想

信玄が三河国攻略中に病死しなかった場合、武田軍は三河国の掌握を達成できたはずですから、少なくとも史実と同じ経緯で長篠の戦いが起こることはありません。

 

同様の戦いが起こるとすれば、それは信玄が三河国からさらに西へ進もうとした時でしょう。

 

その場合、信長と家康は信玄の京都進出を阻むため、三河国の西端で大軍勢をぶつける合戦を仕掛けることになります。

 

しかし、その戦いの結果が、長篠の戦いのように武田軍の大敗に終わったとは考えにくいです。

 

なぜなら、三河国の西端であれば、信玄と同盟関係にある越前国の朝倉氏、近江国の浅井氏が、武田軍の救援に駆けつけることができるからです。

 

そのため、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いは、三河国の西端で断続的に長期間行われることになると考えられます。

 

こうした戦いは、武田家の勢力拡大を阻止することにはなりますが、武田家の滅亡をもたらすことはないでしょう。そのため、信長の死後も、武田家が存続する可能性は大いにあると言えます。

 

まとめ

まとめ

 

 史実によれば、武田信玄は三河国攻略中に、陣中で病にかかり、そのまま病死した。

 

 これにより、武田軍は撤退を余儀なくされ、徳川家康を攻めきれなかった。

 

 もし信玄がこの時死んでいなければ、武田軍は家康の所領である東海地方一帯を支配下に置くことができた。

 

 その場合、信玄の死後も、武田家の勢力はしばらく衰えることがなかったと考えられる。

 

 武田家の衰退のきっかけとなった長篠の戦いも起こらず、織田信長の死後まで武田家は存続したかもしれない。