鎌倉時代中期、モンゴル帝国が2度に渡って日本に攻め入ってきた“元寇”(蒙古襲来)。

 

その一度目の戦いを文永の役、二度目の戦いを弘安の役といいます。

 

今回は一回戦目の『文永の役』についてわかりやすく解説していきます。

 

文永の役とは

(文永の役の鳥飼潟の戦い 出典:Wikipedia

 

 

当時中国大陸を支配していた元が日本を侵略する目的で九州北部に攻め入ってきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」とよび、その1度目の1274年(文永111111日から26日にかけての侵攻を「文永の役」とよびます。

 

このときの鎌倉幕府の執権は北条時宗でした。

 

文永の役が起きるまで

 

 

一度目の日本侵攻、文永の役が起きるまでの元の動きと日本の動きを、詳しく見てみましょう。

 

①モンゴル帝国の存在

当時、モンゴル帝国(蒙古)は、東は中国、西はヨーロッパまで領土を広げた大きな国家でした。その王朝を「元」とよびます。

 

モンゴル帝国はさらに領土を広げるために、1231年(寛喜3)頃から高麗(朝鮮)に侵攻します。

 

1259年(正元元)には高麗はモンゴル帝国に降伏し、モンゴル帝国は高麗の協力を得ることができるようになりました。

 

また、モンゴル帝国は南宋(南側の中国)とも戦いを繰り広げていました。南宋を征略するためにも、日本を自分たちの国の支配下に置くことは重要だったのです。

 

②国書を無視した日本

(クビライ・カアン 出典:Wikipedia)

 

 

モンゴル帝国の皇帝・クビライは、日本へ「モンゴル帝国の支配下に治りなさい」という内容を書いた国書を渡すように、高麗の使者に命じます。

 

1268年(文永5)の1月、高麗の使者は太宰府(現在の福岡県あたりにあった幕府の行政機関)にやってきて、北九州を治めていた御家人の少弐氏に「大蒙古国皇帝奉書」という国書を渡しました。

 

日本はというと、この年の3月に18歳という若さの北条時宗が8代執権に就任したばかりでした。

 

当時、外交に関することは幕府ではなく朝廷が担当するものだったので、高麗の使者から届けられた国書は幕府から朝廷へ送られました。

 

朝廷では何日も、国書についての会議を開きましたが、最終的には幕府が「返事をしないようにしましょう」と朝廷に提案しました。つまり、モンゴル帝国からの国書を無視することに決めたのです。

 

モンゴル帝国からの国書には「従わなければ兵を送る」という文もありました。国書を無視するということは、海を渡って攻撃される恐れがあるということです。

 

そのため幕府は、全国の寺社に敵国が降伏してくるように祈祷をするよう命じました。また、異国に対する警戒も強めていきました。

 

③武力による侵攻へ

日本から明確な返事をもらえなかったモンゴル帝国は、再び高麗の使者を日本に送ります。

 

しかし、高麗の人々にとってみたら、日本と戦争をすることになれば、自分たちも兵や食料などを負担しなくてはいけないので、あまり良い話ではありません。

 

そのため、「天候が悪くて日本まで船で行けなかった」という理由をつけて、途中で帰ってしまったり、モンゴル帝国側に日本と穏便に外交するように勧めたりもしました。

 

しかし、モンゴル帝国は5度目の使者の派遣に、趙良弼という自分の国の官僚を選びました。趙良弼は100人あまりの部下と一緒に太宰府へやってきます。国書の返事を待つために、趙良弼は1年ほど日本に滞在したといいます。

 

結局、日本から返事をもらうことができなかったモンゴル帝国は、ついに武力による日本への侵攻を決めたのです。

 

文永の役のはじまり

 

 

1274年(文永11)、モンゴル帝国と高麗の軍が日本の博多湾を目指してやってきます。

 

①博多湾上陸

元軍(モンゴル帝国の軍)は兵士の数が約27000〜39700人、軍船は約900艘という圧倒的な戦力でした。

 

元軍はまず対馬に上陸し、このとき対馬の子供を含めた男女200人が捕虜として拉致されてしまいました。

 

続いて、壱岐に侵攻した元軍は、そこでも男女関係なく襲い、『高麗史』によれば1000あまりの日本兵を討ち取ったといいます。

 

元軍は肥前(佐賀県・長崎県)沿岸にも侵攻したのち、博多湾に上陸します。

 

このとき九州には、鎮西奉行(九州の御家人のリーダー)の少弐氏や大友氏をはじめとした多くの御家人が兵を構えていました。

 

②主な戦い

博多湾に上陸した元軍は、博多の西部にある赤坂という場所に本陣を構えました。

 

馬に乗りながら弓を射る騎射という戦法が基本だった日本にとって、赤坂という場所は足場が悪く、不利な場所でしたが、肥後(熊本県)の御家人である菊池武房の軍勢は赤坂で元軍に勝利したといいます。この戦いを「赤坂の戦い」といいます。

 

(赤坂の戦い 出典:Wikipedia

 

 

現在の福岡県福岡市にある麁原山(そはらやま)一帯に陣を構え直した元軍は、肥後の御家人・竹崎季長の軍勢と交戦します。

 

元軍は麁原から鳥飼潟という干潟へ逃れますが、竹崎季長はこれを追って、自らも戦います。この様子は『蒙古襲来絵詞』という絵巻物に描かれています。また、この鳥飼潟での戦いを「鳥飼潟の戦い」といいます。

 

元軍を追って攻撃した竹崎季長ですが、元軍の矢を受けて負傷してしまい、ピンチに陥ってしまいます。しかし、そこに肥前の白石通泰の軍勢が助けに入り、なんとか難を逃れました。味方の軍勢が次々に到着した日本軍は、鳥飼潟の戦いで勝利しました。

 

「赤坂の戦い」と「鳥飼潟の戦い」は、文永の役の大きな戦いの二つであったと考えられています。

 

③神風について

元寇について書かれた書物によって、当時の戦況の描かれ方が違います。

 

『八幡愚童訓』という書物では、日本軍は元軍に歯が立たず、元軍が撤退したのも八幡神の化身が元軍に火を放ったからという風に書いてあります。

 

一方『高麗史』という書物では、日本軍と元軍・高麗軍は激戦を繰り広げたが、元軍側の疲れがひどいため撤退したという内容が書かれています。

 

いずれにせよ、決定的な勝敗はつかないままでしたが、元軍は日本から撤退します。一説では、元軍は優勢のまま、一旦陸から船に上がって一夜を明かそうとしたときに暴風雨を受けて船が流されて日本が勝利したという説があります。この暴風雨は「神風」とよばれました。

 

しかし実際は、優勢であったのに陸を捨てて船に上がって一夜を過ごし、また上陸するという作戦はあり得ないとされています。『高麗史』という書物でも、日本から撤退する途中で暴風雨に遭ったという内容が書かれています。

 

また、当時この文永の役が起きたのは11月だったので、台風ではなくただの強風だったのではないかと考えられています。

 

文永の役のその後

 

 

なんとか元軍を退けることができた日本軍ですが、この戦いで得たものは特にないため、幕府は活躍した武士たちへ贈る褒美について、頭を悩ませていました。

 

①恩賞地と防衛体制

この頃の武士は、戦いなどで功績をあげると幕府から褒美として「恩賞地」という土地をもらっていました。逆に言えば、恩賞をもらうために、武士は幕府のために戦うのです。

 

国内での戦いなら、負けた方から土地を奪い、買った方へその土地を分配すればいいのですが、元寇は外国から攻め入ってきたため、土地を得ることはもちろんできません。

 

そのため、文永の役で活躍した武士たちに与えた恩賞はささやかなもので、武士たちは不満に思っていたとされています。

 

また、文永の役のあと、執権の北条時宗は、博多湾の沿岸に「元寇防塁(石築地)」という石の防塁を作らせました。

 

そして、博多湾などの沿岸を警備する「異国警固番役」を九州の御家人に任じました。

 

②弘安の役

文永の役からおよそ7年後の1281年(弘安4)6月から8月にかけて、元軍が再び日本へ侵攻してきます。この2度目の侵攻を「弘安の役」といいます。

 

文永の役で再びモンゴル帝国が日本を侵略しようと攻め入ってくるだろうと予測していた日本は、元軍に対する備えをしてありました。

 

文永の役のように激戦が繰り広げられたものの、台風など運も味方して、日本軍は元軍に勝利しました。

 

まとめ

・モンゴル帝国の元が日本を侵略するために九州北部に攻め入ってきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」とよぶ。

・モンゴル帝国から支配下に入るよう書かれた国書を日本は無視し続けた。

・国書の返事をもらえなかったモンゴル帝国の元軍と高麗軍は日本の博多湾に上陸した。

・文永の役での主な戦闘は「赤坂の戦い」と「鳥飼潟の戦い」である。

・激戦に疲弊した元軍は日本から撤退する途中に暴風に遭う。

・文永の役で活躍した御家人に与える恩賞地が不足していた。

・博多湾の沿岸に「元寇防塁(石築地)」を作らせ、「異国警固番役」を九州の御家人に任じた。

・文永の役の7年後に再び元軍が日本に攻めてきた戦いを「弘安の役」という。




コメントを残す

CAPTCHA


関連キーワード