幕末の京都を大きく焼き尽くす戦いがありました。
それが『禁門の変』です。
幕末に活躍した西郷隆盛が薩摩軍を率いた戦いでもあります。
幕末の歴史を大きく動かした禁門の変の背景・経過・影響について、そして禁門の変で死んだ長州藩士久坂玄瑞についても、簡単にわかりやすく解説します。
目次
禁門の変とは
(禁門の変 出典:Wikipedia)
禁門の変とは、1864年(元治元年)に京都で起こった戦いです。
八月十八日の政変で京都を追われた長州藩が薩摩・会津・桑名藩と京都御所周辺で戦った事件です。
禁門とは皇居の門という意味であり、門の名前をとって蛤御門の変ともいいます。
禁門の変の背景
①尊王攘夷派と公武合体派の対立
尊王攘夷とは「天皇や朝廷を尊重し、外国を追い出せ!」という主張です。
公武合体とは「公(朝廷)と武(幕府)が協力して政治をおこなうべきだ」という主張です。
ペリー来航と日米和親条約の締結がきっかけとなり、尊王攘夷と公武合体の対立が激しくなりました。
尊王攘夷派が長州藩、公武合体派が幕府・会津藩・桑名藩です。
②八月十八日の政変
1863年、京都守護職だった会津藩の主松平容保と薩摩藩は、8月18日に御所から長州藩や三条実美ら尊王攘夷派の公家たちを追放しました。
長州藩は京都での力を失いました。
③池田屋事件
1864年、京都守護職松平容保の支配下にあった新撰組は尊王攘夷派が集まっていた旅館池田屋を襲撃しました。
新撰組局長の近藤勇が自ら乗り込み、多数の志士が切られたり負傷したりしました。
一番の大物だった桂小五郎は会合に遅れたため難を逃れました。新撰組の名はあがりましたが、長州藩をはじめとした尊王攘夷派は激しく怒り、禁門の変につながります。
禁門の変の開始!経緯
(現在の蛤御門 出典:Wikipedia)
①長州藩内の意見対立
八月十八日の政変や池田屋事件で京都での足掛かりを失った長州藩の内部では今後どうするべきか、意見が分かれました。
来島又兵衛らは「すぐにでも京都に兵を出し、長州藩の行動が正しいものだとしめそう!」と強く主張します。
一方、桂小五郎や高杉晋作らは「まだ早い。もっと慎重に」とこの動きを止めていました。
池田屋事件で新撰組に長州藩士が殺されたことがわかると、来島らの強硬派が一気に力を強めました。
②長州藩兵、京都に向けて出発!
1864年、長州藩内で来島らの強硬派が勝利し来島らが京都に向けて進軍を開始します。
長州藩の指揮官の一人に久坂玄瑞がいました。
(久坂玄瑞 出典:Wikipedia)
久坂は吉田松陰の門下生として高杉晋作とともに有名な人物で、吉田松陰の妹婿でもあります。
朝廷から外国を打ち払えという攘夷の命令を出してもらうため、江戸の品川にあったイギリス公使館を焼打ちしました。
はじめは出兵に反対しましたが、出兵をきっかけに朝廷での長州藩の立場を良くしようと考え指揮官の一人になりました。
③長州藩の主張
長州藩は、八月十八の政変で藩主に罪がないことや政変で追放された尊王攘夷派の公家を復帰させるよう主張しましたが、朝廷は拒否しました。
④薩摩藩の動き
薩摩藩は八月十八の政変で会津藩と手を組みました。
これは、薩摩藩のトップだった島津久光が会津藩と同じ公武合体派だったからです。
禁門の変の直前、久光の怒りを買って追放されていた西郷隆盛が京都に復帰しました。
彼は、会津藩と距離を置き「御所の警備にだけ全力で取り組む」としました。
⑤戦いの始まり
1864年6月19日、御所の西にあった蛤御門の近くで長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突しました。
一時は勢いが強かった長州軍が御所内部に侵入しましたが、薩摩軍が会津・桑名兵を救援したため形勢逆転します。
御所警備を第一としていた薩摩藩も御所での戦いに知らないふりをすることができませんでした。
西郷隆盛自らが軍を率い、傷を負いましたが戦いに勝利します。
結果、長州藩の敗北で終わりました。
⑥長州藩士来島又兵衛・久坂玄瑞の最後
来島又兵衛は蛤御門の最前線で指揮をとり続けましたが、薩摩藩の銃撃隊による狙撃で胸を撃たれ、助からないと悟り自害しました。
久坂玄瑞は公家の鷹司家に朝廷へのとりなしを頼みましたが拒絶されます。
そのまま鷹司邸にいるところを攻撃され負傷、自害しました。
禁門の変の被害
禁門の変は京都の中心部での戦いでした。
そのため、京都中心部が広い範囲で焼け落ちました。(東本願寺や本能寺などの多くの寺院が焼け落ちました)
この火災を「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などといいます。
また、街の人々の被害も大きいもので、山鉾などが焼けてしまったため祇園祭などが中止に追い込まれました。
この大きな被害は東京遷都の理由の一つとなりました。
禁門の変の影響
①長州藩、朝敵となる
御所を攻撃した長州藩は「朝敵」とされてしまいます。
いままで、「天皇を大事にし、外国を追い出せ!」と主張していた長州藩が天皇の敵とされたのです。
彼らの立場はものすごく弱くなりました。
②第一次長州征討
弱った長州藩をさらに叩こうとしたのが幕府でした。
幕府は日米和親条約や日米修好条約を結び、開国路線を進めていました。
開国に最も抵抗していた長州藩を叩き潰す絶好の口実が見つかったのです。
幕府は諸大名に命じて長州は討伐を開始しました。
③四国艦隊下関砲撃事件
外国嫌いの長州藩は下関海峡を通る外国船に砲撃を加えていました。
これに対する仕返しとしてアメリカ・フランス・イギリス・オランダの四カ国連合艦隊が下関の砲台を攻撃しました。
17隻の連合艦隊は下関の砲台を占領し、長州藩は攘夷の不可能を悟りました。
④長州藩の政権交代
幕府の長州征討と四国艦隊のダブルパンチでボロボロになった長州藩では、幕府の言うことに従うグループが政権をとり、禁門の変を主導した家老たちが切腹することでことを収めようとしました。
幕府もそれを認め、長州藩は幕府に屈服しました。
まとめ
・禁門の変は京都御所周辺で長州藩と会津・桑名・薩摩藩が戦った事件。
・長州藩が京都に出兵した理由は、八月十八の政変での失敗をとりもどすため。
・出兵のきっかけは池田屋事件で長州藩士も殺されたこと。
・出兵した長州藩兵の指揮官の一人に久坂玄瑞がいた。
・久坂の目的は朝廷に働きかけ長州藩や尊王攘夷派を復活させることだが失敗した。
・禁門の変で長州藩は敗れ、朝敵にされた。
・長州征討や四国艦隊の攻撃で長州藩は幕府に屈服した。