2020年の大河ドラマは「麒麟がくる」に決定し、明智光秀(あけちみつひで)を主人公に迎えその半生を描きます。

 

光秀と言えば、最後は主君・織田信長を裏切りますが、その際自害する事となったのは信長だけではなく、嫡男・織田信忠もでした。

 

もしこの時信忠が生き長らえていたら、日本はどうなっていたのでしょうか?

 

今回は、もし織田信忠が生きていたらその後の日本はどうなったのか?徹底予想していきたいと思います。

 

そもそも織田信忠とは?

 (織田信忠 出典:Wikipedia)

 

織田信忠は、当時天下統一を目論み勢力を拡大していた戦国武将・織田信長の嫡男です。

 

信長は、正室・濃姫との間に子宝が恵まれませんでしたが、側室吉乃をいたく気に入り、吉乃との間に二男一女をもうけました。

 

信長の長男として生まれるも、当初は正室・濃姫へのはばかりから嫡男に認定はされていませんでしたが、濃姫の間に長らく子が恵まれない事から信長の嫡男として養育されるようになります。

 

信長は、自身が弟と家督を巡った背景があったせいか、嫡男である信忠と次男以下の弟達とは明確に区別して養育したと言われているため、幼少期より帝王学を学び、織田家の嫡男に相応しい存在だったようです。

 

戦にも出陣し総大将として全軍を纏め上げるなど、信長の後継者として相応しい成長を見せています。

 

本能寺の変の際には、本能寺近くに宿泊しており、光秀軍に応戦するもやはり最後は自害して遂げました。

 

まずはじめに史実を確認しよう

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(本能寺焼討之図 出典:Wikipedia)

本能寺の変のはじまり

本能寺の変では、本能寺に宿泊していた信長の元へ中国で応戦している豊臣秀吉の元へ援軍に向かった筈の光秀軍が大軍を引き連れ本能寺を襲いました。

 

当時本能寺の信長の元には、100程の手勢のみでそれに対して援軍に向かうはずであった光秀軍は何万ともいう軍勢で、流石の信長でも勝ち目はなく、自ら自害して果てるのでした。

 

信長に同行していた信忠でしたが、信忠は別の寺院の妙心寺に宿泊しており、本能寺の知らせを聞き本能寺に向かうも、信長自刃の報を聞くと二条新御所に籠城します。

 

ここは、当時の皇太子の邸宅で誠仁親王を逃がすと、少ない手勢ながら近習達と共に善戦を繰り広げます。

 

しかしながら、わずかな手勢だけでは勝てる訳もなく、最後は信忠も自害して果てるのでした。

 

信忠の首も父・信長同様発見されませんでした。

 

 

清洲会議

結局、光秀も早々に秀吉に討ち取られ、光秀の天下は続きませんでした。

 

織田家の重臣達による清洲会議によって信忠の長男・三法師が秀吉に担ぎ出されました。

 

しかし、この時若干3歳で事実上当主としての役目を果たせる訳もなく、結局秀吉が後見の座に就くと次第に秀吉は自らのやりたいようになり、勢力を強めて行きました。

 

結局、織田家も追い落とされる形となり、秀吉本人が関白となり天下人へとなり変わったのです。

 

しかし、もしこの時信忠が生きていたら、どうでしょう。

 

本能寺とは、別の所に居た訳ですから、早い段階で逃げていれば生き残ると言う道もあったはずです。

 

そのもしを考えましょう!

 

もし織田信忠が生きていたら?豊臣秀吉は天下をとれなかった!?

豊臣秀吉の天下はない

豊臣秀吉が天下人となれたのは、主君・信長を自害させた本人光秀を討ち取った功績から清洲会議では、我が物顔で発言する事が許され、誰も反対する事が出来ませんでした。

 

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(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

しかし、信忠が生きていたらそのまま信忠を総大将として全軍に触を出し、光秀討伐に動いたでしょう。

 

信忠が生きていれば光秀に就く者は、居ないでしょうし、信長が討たれた事で家中はいきりだっていますから、士気も上がり光秀本人も戦わずして降参した可能性もあります。

 

仮に降参したとしても主君を裏切った光秀は、何れにせよ謀反人と言う扱いを受ける事は間違いありません。

 

しかし、そうなると秀吉は中国大返しを起こし、光秀を討つという功績を残す事はまずありません。

 

 

あくまでも信忠の命に従って動く事になりますし、当時は織田家中で重きを置いていた中国攻めの最中ですし、遠方にいた秀吉はまず呼ばれずそのまま中国攻めに参戦している可能性が高いです。

 

さすれば秀吉は、生涯織田家の家臣として人生を全うする事になりますし、ましてや信忠の従姉妹である淀殿を側室にするなどという、おこがましい事も許される訳もありませんから、豊臣家は断絶していたかもしれません。

 

徳川幕府もない

秀吉の次に天下を取ったのは、信長の盟友でもあった徳川家康です。

 

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(徳川家康 出典:Wikipedia)

 

しかし、彼も天下が取れたのは、秀吉には子が少なく、その上成り上がりの秀吉には譜代の家臣もおらず、身内の少ない豊臣家には御曹司・豊臣秀頼を支えてくれる布陣はいません。

 

その隙を付け入ったからです。

 

苦労人として戦国の世を生き抜き信長の天下取りに尽力したとは言え、家康の徳川幕府の成立は先人信長秀吉がその布石を築いてくれたからに他ならず、家康その一人が築いたとは言いがたい物です。

 

信長は、大分家康を買っていたようですし、信長亡き後もまた若輩の信忠を支える存在としては、打ってつけですから信忠が生きていたら、恐らく近臣の大名として優遇はされたでしょう。

 

家康が成り上がりの秀吉を快く思わないのは、別として盟友・信長の嫡男を疎かにするとも思えませんから、徳川幕府の成立はなかったでしょう。

 

織田幕府成立した?

信忠が生きていれば必ずや天下統一を果たせず亡くなった父の無念を晴らすべく天下統一に着手するでしょう。

 

家中もより一致団結してその本懐を遂げようと尽力するはずです。

 

信忠の周りには、信長の代から仕える戦経験豊富な家臣も多いですから、信忠を支え必ず忠義を尽くすでしょう。

 

その暁に幕府を開けば、当時最高峰の城と言われていた安土城を居城とするはずです。

 

意外にも公家と親しかった信長ですし、安土の方が京に近いですから、何かと都の庇護を受けられるでしょう。

 

信長も子沢山でしたし、譜代の家臣も多く信忠もまだ若いですから、子孫を大いに残せる可能性も有りました。

 

そしたら首都が京都のまま、あるいは岐阜の辺りと言う事も有り得たかもしれません。

 

江戸は、その昔はかなりの田舎でしたから徳川幕府が無ければ今日の発展も有りません。

 

鎖国はなかった?

信長は新しい物好きとして知られ、宣教師を通して積極的に海外の文化にも目を向けていました。

 

信長は、地球が丸い事を理解していたり、比較的キリスト教にも寛容な人でした。

 

その息子の信忠も全てが同じ方針とは限らないでしょうが、嫡男である信忠に新しい文化を享受するべく色々と教えていたに違いありません。

 

秀吉家康の時代となるとキリスト教は、段々迫害されて行き、ついには鎖国をしてしまいました。

 

 

勿論キリスト教が増え過ぎる事を懸念しての事ですが、この鎖国により日本の文化の発展は、諸外国に比べ大分遅れたとも言えますし、日本独自の文化の発展を守り抜いたとも言えます。

 

鎖国が無ければ、医療などが発展していた可能性は高いですが、着物や武士の忠義と言った日本古来の文化は早々に廃れた可能性が高いでしょう。

 

今ですら古典文化は廃れつつあり、誰しもが洋服を着用している今それが何百年と早まる可能性は高いですね。

 

織田家の人々のその後

家紋

(家紋 出典:Wikipedia

 

織田家の家督を継ぎ担ぎ出された三法師も無事成人して秀信と名乗るも、関ヶ原の戦いでは豊臣方に付きます。

 

 

当然豊臣方は負けたので処分の対象となりますが、周りの助命嘆願もあり、出家する事で事なきを得ますが、最後は若くして病で亡くなり子もいませんでした。

 

織田家その物は、信忠の弟信雄が大名家として残るもかつての勢いとは程遠い小国となり、あくまでも徳川の家臣と言う立場になりました。

 

もし信忠が生きていれば織田家の命運も違ったかもしれません。

 

まとめ

まとめ

 

✔ 本能寺の変では、信長の嫡男信忠も応戦空しく自害する。

 

✔ 信忠が生きていたら秀吉の見せ場は、無く関白の座も淀殿を側室に迎える事も出来ない。

 

✔ 信忠が生きていたら徳川家は、近臣として重宝されたかもしれないが幕府は、開けない。

 

✔ 信忠が生きていたら幕府を開き天下統一。

 

✔ 信忠が生きていたら鎖国は、無く早くから海外と交流していたかも。

 

✔ 信雄の家系が大名として生き残るもかつての勢いは、どこへやら。

 

 

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