戦前の日本史を理解するうえで、軍部大臣現役武官制の理解は避けて通れないないものです。
それだけ重要なのでセンター試験なんかでもよく出題されるんです。だったら、しっかり理解してほかの受験生に差をつけてしまいましょう。
今回は、軍部大臣現役武官制についてわかりやすく解説していきます。
目次
軍部大臣現役武官制とは
軍部大臣現役武官制とは、1900年(明治33年)に山県有朋により作られた制度です。
軍部大臣というのは陸軍大臣・海軍大臣のこと。現役武官というのは、予備役や後備役といった元軍人ではなく、現役として活動している軍人という意味です。
つまり、『陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人しかなれない』という制度です。山県は日本陸軍の生みの親といってもよい人物です。
山県有朋は、なぜこの制度を作ったの?
(山県 有朋 出典:Wikipedia)
山県は政党が力を伸ばすのではないかと考えていました。
政党が内閣を作るようになると、軍人ではない政党員が陸軍大臣や海軍大臣になって影響力を軍に対して振るうのではないかと心配しました。
そのため、軍人でないものが大臣になれない仕組みをつくって政党の力が軍に及ばないよう軍部大臣現役武官制を作りました。
軍部大臣現役武官制の問題点
軍部大臣現役武官制の一番の問題点は、陸軍や海軍が気に入らない人物が内閣を作ることを阻止できることです。
実際、この制度を利用することで倒閣に追い込まれたり、そもそも内閣を作ることができなくなりました。
①なぜ、内閣を作ることを阻止できるのか
大日本帝国憲法では、今の日本国憲法と違い内閣総理大臣の力は強くありませんでした。
内閣総理大臣を含む各大臣は天皇によって任命され、内閣総理大臣は直接任命できませんでした。
そして、陸軍大臣や海軍大臣は、それぞれ軍の内部で推薦者があげられ天皇が任命していました。ですから、内閣総理大臣が指名したい人がいても、軍が推薦しなければ天皇は任命しません。
陸軍大臣や海軍大臣が欠けたままの内閣は不完全とみなされ成立できませんでした。
②どうやって内閣を倒すことができるのか
軍の方針に反対したり、軍に不利なことを行おうとした内閣の陸軍大臣・海軍大臣に辞表を出させ、後任を推薦しません。
そうすると、大臣不在となり内閣は存続できなくなり、総辞職に追い込まれます。
悪用例① 陸軍二個師団増設要求と西園寺内閣の倒閣
(西園寺公望 出典:Wikipedia)
明治の末の1912年、当時の内閣総理大臣は西園寺公望でした。
当時の日本の財政は危機的なものでした。1905年にポーツマス条約を結んでロシアとの戦争は終わらせたものの、賠償金をとることができず、借金である国債に支払いに追われていたのです。
しかし、陸軍は新たに二個師団(一個師団=10000~20000人)を要求します。
西園寺はこの要求を拒否。すると陸軍大臣の上原勇作は天皇に直接辞表を出して勝手にやめてしまいました。
陸軍は公認の陸軍大臣を出しません。その結果、西園寺内閣は総辞職に追い込まれたのです。
こんなに軍がやりたい放題悪用して、大丈夫だったの?
さすがに、西園寺内閣をの倒し方に関しては国民が怒りました。
陸軍の後押しで作られた第三次桂内閣は第一次護憲運動よってあっという間に倒されました。世論は軍の強引なやり方に強い反対を示したのです。
制度の見直し。「軍部大臣現役武官制」を廃止
(山本権兵衛 出典:Wikipedia)
1913年に成立した第一次山本権兵衛内閣は制度の見直しを行い、軍部大臣になれる資格者を現役のみから予備役・後備役まで拡大します。
早い話、元軍人でもなれるようにしました。「現役」の限定を取り外したのです。
ちなみに、軍の役職についていないのが予備役、定年の65歳以後6年間は後備役とされました。これを軍部大臣現役武官制の廃止といいます。
ただ、実際のところ現役以外の軍人が軍部の大臣を務めることはありませんでした。
軍部大臣現役武官制の復活。広田弘毅内閣
(広田弘毅 出典:Wikipedia)
いったん削除された「現役」の二文字は1936年の広田弘毅内閣の時に復活します。
その背景は広田内閣がどのようにしてできたかを見ることで分かってきます。
広田がなぜ軍の要求を受け入れて復活させたのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
広田内閣成立の背景① 二・二六事件
1936年2月26日、二・二六事件が起こります。
陸軍内部の皇道派とよばれた軍人たちが、現在の政府や軍の上層部を排除して実力で政権を奪うクーデタを試みました。
クーデタ派は内大臣斎藤実や大蔵大臣の高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎らを殺害し陸軍省や警視庁などを占拠した事件です。
この事件の後、皇道派は力を失い陸軍の主導権は統制派とよばれる軍人たちに移ります。
広田内閣成立の背景② 陸軍統制派によるプレッシャー
統制派は日本全体を戦争に向けて変えていく総力戦体制を作り上げようとしていました。
二・二六事件当時の首相であった岡田啓介の後を受けて内閣総理大臣に推薦されたのは外交官だった広田弘毅です。
広田が内閣を作るにあたって、陸軍は大臣の人選や軍備の拡張など多くの要求を突きつけます。
いわば、陸軍の言いなりともいわれるほど要求を丸呑みさせられたのです。その中で軍部大臣現役武官制の復活が決められたのです。
悪用例② 宇垣一成“流産”内閣
広田内閣はそこまで軍の要求を丸呑みしましたが、結局は陸軍のプレッシャーに耐えられず総辞職してしまいます。
かわって内閣を作ろうとしたのが陸軍出身の宇垣一成でした。ところが、この宇垣は陸軍の評判がよくありませんでした。
軍縮を進めた時の陸軍大臣だったこともその理由の一つです。
陸軍は宇垣の内閣に対して陸軍大臣を推薦しませんでした。そうすると、大臣がそろわないことになり組閣できません。
結局、宇垣は総理大臣への推薦を断るしかありませんでした。
その後の軍の動き
いつでも内閣を倒せる力を手にした陸軍は政治への介入を深めていきました。
その集大成ともいえる法律が国家総動員法です。
これは、政府が議会の承認なしに勅令で戦争に必要な人や物を動員できるという法律です。
これでは、議会の意味がまるでありません。
自由民権運動によって作られた国民の声を政治に反映させる仕組みは完全にストップしてしまいました。こうなると、誰も戦争を止めることなどできません。
日中戦争は延々と継続し、太平洋戦争まで始まって日本は敗戦の日まで突っ走ることになるのです。
まとめ
✔ 軍部大臣現役武官制は陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人以外はなれないという仕組みを言う。
✔ 軍部大臣現役武官制を作ったのは山県有朋。
✔ 山県が作った理由は政党の力が軍に及ばないようにするため。
✔ 「軍部大臣現役武官制」が廃止されたのは第一次山本権兵衛内閣。
✔ 「軍部大臣現役武官制」が復活したのは広田弘毅内閣。
✔ 代表的な悪用例は西園寺内閣の倒閣。