【オイルショックによるトイレットペーパー騒動】なぜ買占めが起きた?新聞社のデマ?

 

オイルショックによるトイレットペーパー騒動”といえば教科書などで、スーパーに押し寄せる主婦の写真を見たことがある人は多いのではないでしょうか。

 

なかなか印象的な写真ですが、その騒動の背景と真相をここで詳しくみていきましょう。

 

オイルショックによるトイレットペーパー騒動とは?

 

 

1973年、第四次中東戦争をきっかけとしたオイルショックの際、石油の供給量減少や価格高騰が起こりました。

 

様々な製品の主原料となる石油の値上げが、物価の上昇を引き起こすのではないかという人々の不安感が高まる中、一部のデマなどから発生したトイレットペーパーの買い占め騒動のことをさしています。

 

トイレットペーパー騒動が起こった背景

(ゴラン高原を進むイスラエルの戦車 出典:Wikipedia

①第1次オイルショック

197310第四次中東戦争が勃発します。

 

これを受けてOPEC(石油輸出国機構)加盟原油国のうちサウジアラビアを筆頭にしたペルシャ湾岸6か国が原油価格の引き上げを発表します。

 

さらに段階的な削減も発表し、アメリカやオランダなどイスラエル支援国に関しては経済制裁(原油の輸出禁止)を決定しました。

 

安価な中東の原油に依存していた西側先進諸国ではこれによる燃料・原料の不足から物価の急激な上昇が起こり、経済的な混乱が起きるのですが、これをオイルショック(石油危機・石油ショック)と呼びます。

 

 

②日本への影響

中東戦争に直接かかわってなかった日本ではありますが、アメリカと親密であったがゆえに、同じくイスラエル支援国としてリストに載せられてしまいます。

 

アメリカからの反発が予想されましたが、資源のない国としてはやむを得ない事態として、政府は当時の三木武夫副総理を中東諸国に派遣します。

 

何とか日本の立場を説明した上でリストから除外するように求め、結果的に禁輸国リストからは除外されましたが、原油価格の高騰は石油製品を大量に消費していた日本にも大きな影響がでたのです。

 

トイレットペーパー騒動の発生

(騒動の勃発地「千里大丸プラザ 」 出典:Wikipedia

 

 

オイルショックを受けて、連日マスコミが石油資源不足の報道をしており、国民の不安は大きくなっていました。

 

197310月に政府が発表した「紙資源節約の呼びかけ」から、「紙が無くなる」というデマが流れ始めます。

 

そして11月に大阪でチラシに煽られて特売トイレットペーパー購入に主婦が殺到した結果、即売のフォローで通常品も販売対応したのですが、それも瞬く間に売り切れるという出来事がおこりました。

 

その情報を聞いた新聞社が【あっという間に値段は2倍】という記事を出してしまいます。

 

特売品に対して通常品が高額なのは当然なのですが、この記事は大変インパクトがありました。

 

このために騒動が大きくなり、全国各地でトイレットペーパー買い占め騒動が起きてしまうのです。

 

トイレットペーパー騒動の実情と政府の対策 

 

騒動が起きた当時は実際には品不足もなく、マスコミや口コミに踊らされただけでした。

 

ところが、購入過多からの在庫不足が連鎖になり、政府からの買い占め自粛要請が出るほどになります。

 

現在でも、TV放送された製品が一時的に需要過多になり、店頭から消えてしまう現象は多くて大変困りますよね。

 

さらに政府は、石油緊急対策要綱を閣議決定し、総需要の抑制に努めます。その為に国内の消費はさらに低迷していったのです。

 

オイルショックだけの影響ではないにせよ、ここに戦後続いていた日本の高度経済成長が終わりを迎えることになるのです。

 

 

 オイルショック後の日本

①省エネと代替エネルギーの推進

中東戦争後もしばらく原油価格の高騰は続いたため、日本国内では「省エネ」の呼びかけが積極的に行われます。

 

ガソリンスタンドの日曜営業停止や、TVの深夜放送の停止、ネオンの停止など国民は深刻に受け止め協力していきます。

 

その結果、エネルギーの消費抑制効果も出るようになり、さらに省エネに繋がる技術革新や、石油に代わる代替エネルギーの研究が進んでいくようになったのです。

 

②第2次オイルショック

1979年のイラン革命の影響で、当時世界で第2位の産油国だったイランからの原油の輸出量が減少しました。

 

その結果、世界的な原油不足となり再び石油危機が起こります。

 

これを第2次オイルショックと呼びますが、この時は、前回の教訓を活かしていた政府の対応の速さから、日本国内ではそれほどの影響は出ていないとのことです。

 

 

ここからは、騒動のきっかけとなったオイルショックを引き起こした中東問題について詳しく解説していきたいと思います。

 

興味のある方はぜひ最後まで読んでください。

 

中東問題

イスラエル地域の歴史

中東のイスラエル一帯は今でも紛争が多い地域ですが、何故なのでしょうか。まずはその歴史を遡ってみたいと思います。

    • 3000年前…現在のイスラエルのある地域にはユダヤ教を信仰するユダヤ人の国である『イスラエル王国』が存在していた。
    • 紀元前600年頃ローマ帝国の侵略により、ユダヤ人は追放されローマ帝国の征服によりこの地ではキリスト教が普及する。
    • 600年頃にはイスラム帝国が占拠しイスラム教が普及していく。

    このような流れから、“聖地エルサレム”は3つの宗教の聖地になっているのですね。

     

    さらに、16世紀頃にはオスマン帝国がこの一帯を支配したので、イスラム教の色が強い地域になっていったのです。

     

    オスマン帝国支配の際に、この地域は「パレスチナ」と呼ばれるようになります。

     

    また、最初の『イスラエル王国』の住人であったユダヤ人たちは各地に散って活躍したのですが、優秀であるが故の迫害を受けた為、多くの人々がこの地に戻ってくるようになりました。

     

    その為、この地域はアラブ人【イスラム教】とユダヤ人【ユダヤ教】がほどほどに共存して成り立っていたのです。

     

    イギリスの罪

    1914年から始まった第一次世界大戦により、オスマン帝国VSイギリス・フランス・ロシアという対立が起こります。

     

    その際オスマン帝国の内部崩壊を狙ったイギリスにより、この地域の微妙な均衡が崩されていくのです。

     

    イギリスはアラブ人側へ武力協力を呼びかけると共に、勝利後のアラブ人の国の建国を約束し、さらにユダヤ人側には資金協力を要請し、こちらにも同様の約束をします。

     

    その上で勝利後はどちらの約束も守らず、さらに第二次大戦後にはこの地域から撤退、問題を国連に丸投げしたのでした。

     

    ③パレスチナ問題

    イギリスにパレスチナの支配権問題を丸投げされた国連は、パレスチナにアラブ人とユダヤ人の国を築くべく分割するのですが、その分割に問題がありました。

     

    やはり国連も構成国の意思が働いてしまったのです。

     

    国連の代表国であるアメリカにとっては、本土に住むユダヤ人の票は非常に重要なものらしく、当時のトルーマン大統領や、現在のトランプ大統領もこの大きな力を得て大統領に当選したようです。

     

    そのため、良質な土地側をユダヤ人の国[イスラエル]としました。

     

    これに対して当然納得がいかないアラブ人はイスラエルに攻撃をしかけ、これが最初の戦いとなります。

     

    その後も、様々な国の思惑等から現在に続く泥沼状態になってしまうのです。

     

    中東戦争の勃発

    Raising the Ink Flag at Umm Rashrash (Eilat).jpg

    (第一次中東戦争 出典:Wikipedia

     

     

    建国された[イスラエル]に対してアラブ諸国との戦いが何度も起こりますが、それらを『中東戦争』と呼んでいます。

     

    第一次中東戦争

    [イスラエル]建国時期におこった最初の戦いを『第一次中東戦争』と呼びます。

     

    アラブ人側を支援したエジプトとヨルダンにより、『ガザ地区』『ヨルダン川西岸地区』が一旦はアラブ人の土地となるのですが、その後反撃したイスラエルに奪取されてしまいます。

     

    結果、アラブ人の住むところが無くなるのは大変!とばかりに、この2つの地域をアラブ人の住む『パレスチナ自治区』として国連が認定し、ここに住むアラブ人を「パレスチナ人」と呼ぶようになっていきます。

     

    この『第一次中東戦争』でイスラエルが反撃し勝利できたのは、バックにアメリカとイギリスの協力があったからといわれます。

     

    ②第二次中東戦争

    1869年にエジプトとフランスの共同で建設を進めたスエズ運河が完成しました。

     

    海運交通の要所であるこの運河ですが、当時財政難に陥ったエジプトが保有株をイギリスに売却してしまつたことで、イギリスが筆頭株主になっていたのです。

     

    1956年エジプトがスエズ運河の「国有化」を宣言したために、イギリスは激怒、フランス・イスラエルに協力を仰ぎ、第二次中東戦争が勃発します。

     

    この戦いは、国連の停戦要求、ソ連のエジプトへの協力、アメリカの反対などにより終了しました。スエズ運河の国有化は認められましたが、戦争自体はイスラエル側の勝利でした。

     

    しかしながら、イスラエルなど軍事攻撃をした側への批判は大きく、エジプト側が世論に支持されることになっていくのです。

     

    ③第三次中東戦争

    国際世論がエジプトを中心としたアラブ諸国側になり、イギリスやフランスも表立ってイスラエルを支持できなくなると、イスラエルは自国での軍事力強化に努めるようになります。

     

    ゴラン高原へのユダヤ人居住によるアラブ諸国との緊張の高まる中、1967第三次中東戦争を仕掛け、急襲によりエジプト・ヨルダン・シリア・イラクなどの軍事基地を破壊。

     

    6日戦争と言われるような短期間に『シナイ半島』『ガザ地区』『ヨルダン川西岸地区』を占領しました。

     

    ④第四次中東戦争

    イスラエルにアラブ諸国が負け続ける中、1973年エジプトがイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させます。

     

    この戦いにおいて、アラブ諸国が石油戦略を展開することで有利な休戦へと持ち込みます。

     

    『シナイ半島』はエジプトが奪還しましたが、『ガザ地区』『ヨルダン川西岸地区』からのイスラエル人撤退とはいきませんでした。

     

    まとめ 

     トイレットペーパー騒動は、オイルショック時の国民の物不足への不安を煽ってしまったマスコミと口コミが起こした買い占め運動のこと。

     オイルショックの影響から、資源不足への危機感もおこり、省エネ対策や代替エネルギー研究が進んでいくようになった。

     オイルショックとは原油不足からおこった世界的経済混乱のこと。

     オイルショックは2回起こっているが、原因が異なる。

     第1次オイルショックは第四次中東戦争における石油戦略が原因。

     第2次オイルショックはイラン革命が原因。

     日本では第1次の際に大きな影響をうけ、高度経済成長も止まってしまった。