鎌倉幕府が京都に設置した六波羅探題。幕府は何のための六波羅探題を置いたのか?

 

そもそも六波羅探題は何なのか…?

 

今回は知っているようで知らない『六波羅探題』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

六波羅探題とは 

 

 

六波羅探題とは、1221年 後鳥羽上皇の起こした承久の乱後、鎌倉から遠く離れた京都にいる朝廷を監視し、西国(尾張より西)の武士を取り締まるため、鎌倉幕府が京都に置いた役職のことです。

 

六波羅とは京都の地名で鴨川東岸の五条から七条のエリアを指し、探題とは地方長官のような意味です。

 

六波羅探題の目的・役割

 

 

 “承久の乱後”に置かれた役職であることが六波羅探題の最重要ポイントです!

 

六波羅探題には、二度と承久の乱のような朝廷の反乱が起こらないよう京都の朝廷を監視し、また、新たに幕府の支配がおよんだ西国(尾張より西)の武士たちが討幕などの不穏な動きをしないよう取り締まる目的がありました。

 

幕府の拠点だった鎌倉は、朝廷のいる京都まで約450km

 

こんなに離れていたら不穏の動きがあっても気づかないし、反乱が起こってもすぐ鎌倉から軍勢を送って鎮圧できる距離でもありませんよね。

 

だから、鎌倉幕府は京都をはじめ西国での動きにすばやく対応できるように六波羅探題を置いたのです。

 

このほか、六波羅探題はこれまで朝廷が支配していた西国に幕府の勢力を広げていく拠点としての役割もありました。

 

ちなみに、鎌倉幕府は承久の乱の前までは、京都守護という役職を置いていましたが、承久の乱のとき京都守護が朝廷側についたため、京都守護は廃止されました。

 

六波羅探題の設置者

(鎌倉幕府 北条氏が用いた家紋『北条鱗』 出典:Wikipedia

 

 

六波羅探題を設置したのは鎌倉幕府です。

 

承久の乱の頃は、2執権北条義時が実権を握っていました。

 

執権とは、源頼朝の死後、将軍に変わって幕府の実権を握り、政治を動かした役職。源氏の将軍が3代で途絶えた後は北条氏が執権を世襲し、執権政治を行いました。

 

初代の六波羅探題に任命されたのは、承久の乱で活躍した北条泰時北条時房。泰時は2代執権北条義時の子、時房は義時の弟です。

 

(北条泰時像 出典:Wikipedia)

 

 

鎌倉幕府にとって重要な京都と西国を監視する六波羅探題には、執権政治によって幕府内の権力を掌握していた北条氏の中でも特に優秀な人材を任命しました。

 

六波羅探題設置の背景

(承久の乱を起こした後鳥羽上皇 出典:Wikipedia)

承久の乱の勝利

天皇や公家による京都の朝廷と、武士による鎌倉幕府。

 

1185年に鎌倉幕府が成立して以来、この2つ政権が全国を二重支配していました。(公武二元支配)。

 

いつの世も政治を動かす政権が2つあってうまくことはまずありません。

 

この朝廷と鎌倉幕府も同じ。朝廷側の後鳥羽上皇は、権力を独占しようと、軍事力を強化しながら幕府を討つチャンスを狙っていました。

 

そして、そのチャンスがおとずれます。

 

1219年3代将軍源実朝(さねとも)が甥の公卿(くぎょう)によって暗殺され、源氏の将軍は3代で途絶えてしまいました。

 

鎌倉幕府のナンバー2、執権の北条義時は、4代将軍として天皇家から将軍をむかえようとしましたが、後鳥羽上皇はこれを拒否。しかたなく義時は天皇家より格は下がりますが、朝廷の要職である摂政・関白を任される摂関家藤原頼経(よりつね)を4代将軍としました。

 

とはいえ、頼経はまだ2歳だったので、すぐ将軍にはなれませんでした。

 

この将軍不在の状況を見逃さなかったのが後鳥羽上皇です。

 

源氏の正式な血筋の将軍が途絶えたら、全国の御家人たちは幕府を見限り、朝廷側につくかも!そんなことを考えたのです。

 

そして、武士にむけ“北条義時を討て”と命令を出しました。

 

朝廷の敵、天皇の敵にされた鎌倉幕府の御家人には動揺が広がりました。

 

鎌倉幕府が力をつけてきたとはいえ、ずっと昔から全国を支配してきた朝廷の力は強力で、その朝廷と戦うなんて、当時の武士たちには考えられないことでした。

 

そんな御家人たちの心をひとつにまとめたのが、頼朝の妻、北条政子。御家人たちを集めて演説し、鼓舞しました。

 

『みなの者よく聞きなさい。朝廷のボディーガードにすぎなかった武士の地位をあげ、土地を与えてくれたのはだれですか?そうです。頼朝公です。この御恩は山よりも高く、海よりも深いもの。今こそ、頼朝公のご恩にこたえるときではないのか!!!』と・・・。

 

この政子の言葉で、御家人たちは一致団結。北条泰時(義時の子)と時房(義時の弟)が19万人の東国の武士の大軍を率いて、京都に挙兵しました。

 

この戦いが1221年承久の乱です。

 

戦いはわずか1か月。鎌倉幕府の圧勝に終わりました。

 

朝廷の権力が低下

朝廷に勝利した幕府は、朝廷側の権力者たちを京都から追い出し、朝廷の弱体化を図りました。

 

承久の乱の首謀者後鳥羽上皇隠岐(島根)へ、土御門上皇土佐(高知)へ、順徳上皇佐渡(新潟)へ島流しにしました。

 

そして、上皇たちのもっていた領地3,000か所あまりを没収しました。

 

③六波羅探題を設置

朝廷の影響力が弱まった京都に、今後二度と反乱を起こさないよう朝廷を監視し、西国の御家人を統括するために新たに設けた役職が六波羅探題です。

 

京都には、鎌倉幕府の京都守護という役職がありましたが、承久の乱で朝廷側についたため、その代わりに六波羅探題を置くことにしました。

 

初代六波羅探題には、北条泰時北条時房が就きました。

 

六波羅探題の影響 

 

 

六波羅探題が設置されると、幕府はここを拠点として、これまで朝廷が支配していた西国で御家人を増やし、勢力を拡大していきました。

 

幕府が御家人を増やすため取り入れたのが、新補地頭 (しんぽじとう)。承久の乱後、幕府が上皇たちから没収した土地を与え、新たに任命した地頭のことです。

 

新補地頭になると、その土地から“自分の分の税を多く徴収してもよい”というおいしい特典があったので、畿内や西国で新補地頭の数が増えました。

 

つまり、鎌倉幕府に仕える御家人が増えたわけです。

 

こうして、幕府は朝廷を上回る権力を手にし、“西の朝廷、東の幕府”という公武二元支配体制が崩れ、幕府の支配が全国におよんでいきました。

 

まとめ

・六波羅探題は、1221年後鳥羽上皇の起こした承久の乱後、鎌倉幕府が京都に置いた役職。

・六波羅探題の職務は、朝廷の監視と西国の武士の取り締まり。

・六波羅探題には西国に幕府の勢力を広げていく拠点としての役割もあった。

・初代の六波羅探題は、承久の乱で活躍した北条泰時と北条時房。

・鎌倉幕府は西国で御家人を増やすため新補地頭を設けた。

・承久の乱をきっかけに六波羅探題が置かれ幕府の支配が西国までおよび、公武二元支配体制が崩れた。




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