“磐井の乱”と聞いて、知っているとはっきりと答えられる人は多くないかもしれません。
中学の歴史ではほぼ出てきていませんね。
そこで今回は、古代日本史上最大の反乱とも言われる『磐井の乱(いわいのらん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
磐井の乱とは?
磐井の乱とは、527年、当時の大和政権に対して地方の豪族である磐井【筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)】が中心になり起こした反乱です。
朝鮮半島へ大和政権が出兵する際に、その進軍を1年近く妨害していたと言われています。
しかし、528年に物部麁鹿火(もののべのあらかび)が派遣され、この反乱は鎮圧されました。
磐井の乱が起こるまでの日本
ここで乱が起こるまでの古代日本の様子を振り返ってみましょう。
①連合政権の誕生
3世紀後半、畿内に有力豪族で構成する強力な勢力「大和政権」が誕生しました。
まだ全国各地ではそれぞれ力のある豪族がいたようですが、少しずつ権力の集中が進められていきます。
②支配の仕組み
大和政権は【氏姓制度】という制度で豪族を支配していきます。
簡単にいうと【氏(うじ)】という豪族の血縁関係の同族集団に対して【姓(かばね)】という身分や地位、仕事などを「大王」が与えるというものでした。
“国造”もその中の地方役職名となります。
③中国・朝鮮半島との関係
当時先進国であった中国には、≪虎の威を借りる≫為に朝貢を重ねていました。
対して、高句麗・新羅・百済で三国時代をつくっていた朝鮮半島には、資源などを求めて進出していました。
混沌とした南部伽耶地域(任那)の支配権を得た上で、さらに百済と手を組み、半島での立場をそれなりに保とうとしてきたのです。
様々な施策の甲斐もあり、5世紀中頃には、大和政権の力は関東や九州へと広がっていきました。
これは「倭の五王」で有名な雄略天皇(武)の名が刻まれている鉄剣などが稲荷山古墳(埼玉)、や江田船山古墳(熊本)から出土していることからもわかります。
磐井の乱が起こった背景
磐井の乱が起こるに至った背景とその詳細を確認しましょう。
①政治の混迷
大和政権の中枢にいる有力豪族たちは、互いに政治の実権を握るべく様々な策を講じていました。
一族により都合の良い「大王」を擁立すること等が頻繁に行われ、政治は混乱していたのです。
②外交失策
三国間で争っていた朝鮮半島ですが、勢いのあった高句麗によって百済は領土の半分を奪われます。
任那の半分譲渡を依頼された大和政権では、当時の権力者大伴金村がこれを許可し、支配地の半分を失うという失策を冒してしまいました。
さらに金村が賄賂をもらっていたことも発覚、政治の腐敗ぶりも明らかになります。
③地方への負担
半島での失策を打開すべく大和政権は半島へ軍を送ることにしましたが、畿内の大和政権から兵を送るためには、九州地方の豪族の協力が不可欠となります。
度重なる出兵の為に、兵や物資の負担を多く課せられたことで、彼らの不満は徐々に高まっていきました。
④地方豪族の実力
大和政権の支配力が希薄な地方にいる豪族の中には、それぞれの地で大きな力を持つものが沢山いました。
特に九州の豪族は地理的にも有利だった為、独自に大陸との交流を深めていました。
特に磐井氏は新羅と交流をし、強大な力で筑紫国を治めていたのです。
磐井の乱の経過
朝鮮半島への出兵の為、大和政権が送った近江毛野(おうみのけの)の約6万の軍勢に対して、磐井は火の国(熊本)と豊の国(大分)の豪族らと手を組み、その進路を妨害し、各地で衝突を繰り返していきます。
磐井は交流のあった新羅から出兵妨害の要請を受けていたと考えられています。
この状況を1年余り抑えられなかった大和政権は、ついに軍事力に秀でた「物部麁鹿火(もののべのあらかび)」を派遣します。
現在の久留米市付近で戦ったとされる最終戦で磐井は敗北し、528年には鎮圧されました。
磐井の乱のその後
乱が鎮圧された後の変化をみていきましょう。
①大和政権の動き「支配力強化」
大和政権は乱への反省から、地方の支配力を強めるために、直轄地である【屯倉(みやけ)】を全国各地に置くようになります。
これにより大和政権が統一国家への道を加速していくようになるのです。
②大和政権の動き「権力者の交代」
磐井の乱を鎮圧し、力を誇示したのは軍事力の「物部氏」でした。
さらに屯倉を管轄していた「蘇我氏」の力も強くなりますが、反対に先の事件で百済との癒着が露呈した「大伴氏」は失脚、政府中枢の勢力図も大きく変わっていきます。
そしてこの後、蘇我氏と物部氏との対立が始まるわけです。
③地方勢力の変化「反乱か独立戦争か」
磐井氏のような地方の有力豪族と大和政権の当時の関係を考えると、この出来事は大和政権への「反乱」というよりは「独立戦争」だったのではと現在は考えられています。
大和政権側の歴史書である『古事記』『日本書紀』では反乱者として記載されている磐井も、九州側からみれば、郷土を守り圧力に抗おうとする革命のリーダーだったのかもしれません。
③地方勢力の変化「地方の衰退」
大和政権の支配力強化に伴い、地方での強大な力は失われていきます。
皮肉にもこの乱がきっかけで、地方豪族の力が衰退してしまうのでした。
おまけ
この乱で敗北した磐井の墓とされているのが、「岩戸山古墳」です。
この古墳は八女古墳群と言われる周辺の古墳の中でも最大規模で、継体天皇の墓に匹敵するくらい大きい前方後円墳となっているそうです。
内部には石で造られた「石人石馬」が納められており、これらは大和政権の埴輪(土製)に対して、異なる立場であること、独立性を示したかったものとされています。
地方が中央政府に負けないくらいの力を持っていたことの証でもあるこの古墳をみて、中央集権国家形成前の古代日本最大の事件に思いをはせるのもいいかもしれません。
まとめ
✔ 「磐井の乱」とは筑紫国造磐井が大和政権に対して起こした反乱とされる。
✔ 「磐井の乱って、い(5)つ(2)な(7)の?」(527年)で覚えよう。
✔ 大和政権の外交失策により半島への出兵回数が増加、地方豪族の負担大となった。
✔ 磐井の乱では大和政権に不満をもつ九州の豪族たちも加担した。
✔ 百済と協力し新羅に対抗した大和政権に対して、磐井は新羅に協力した。
✔ 1年余りもの争いを鎮圧したのは「物部麁鹿火」だった。
✔ 乱の平定後、鎮圧した「物部氏」と地方平定の為に配備された”屯倉“を扱う「蘇我氏」の勢力が増し、中央政治の勢力図が変化した。
✔ 乱の後、大和政権の統一国家への道が加速していった。
✔ 磐井の墓とされる“岩戸山古墳”からは当時の地方勢力の大きさと独自性が伝わる。