第二次世界大戦の直前、東南アジアへの進出を目論んでいた日本は、それを阻止しようとしたアメリカやイギリスをはじめとする国々から、大規模な経済制裁を受け始めました。
日本の軍部はこうした状況を「ABCD包囲網」と呼び、国内の危機感を煽っていきます。
今回は、『ABCD包囲網』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
ABCD包囲網とは?
日本は1930年代後半、来たる対米開戦に向けて石油を確保するため、東南アジアへの進出を目論んでいました。
しかし、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の4カ国はこれを阻止するため、日本に対して経済制裁を行いました。この状況を「ABCD包囲網」と呼びます。
「ABCD包囲網」という言葉は、当時の東アジアの国際状況を的確に表す言葉ではなく、日本側が国民の危機感を煽るために造った言葉です。
実際、新聞や雑誌などを通して、この言葉は国内に広く流布し、総力戦体制を整える上で重要な役割を果たしました。
ABCD包囲網が行われた背景や原因
(日本の中国進出「柳条湖事件」 出典:Wikipedia)
①1930年代の日本の中国進出
ABCD包囲網が敷かれた背景には、1930年代の日本の中国進出があります。
まず、日本は1931年9月に起こった柳条湖事件をきっかけに、中国東北部の満州を侵略し、そこに日本の傀儡(かいらい)国家である満州国を建国します。
これがのちに「満州事変」と呼ばれる一連の出来事です。
こうした傀儡国家樹立は国際社会の反発を招きました。
国際連盟は中国の提訴により、リットン調査団を派遣し、満州事変の真相が日本の謀略であることを突き止めます。
そのうえで、日本に対して満州からの撤退を要求しますが、日本はそれを拒否し、国際連盟を脱退。これにより、日本は国際的に孤立してしまいます。
そして、1937年7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発します。
日本は当初、中国軍に一撃を加えれば、すぐに降伏すると考えていましたが、中国軍の徹底抗戦により日中戦争は長期化し、日本は物資不足に陥ります。
特に、軍事物資である石油、鉄、ゴムを安定的に確保することが重要な課題となっていきます。
②アメリカの対日政策
アメリカは満州事変以降の日本の中国進出を問題視していました。
日中戦争が長期化し、中国におけるアメリカの権益にも害が及ぶようになると、日本に抗議するため、1939年に日米通商航海条約の破棄を通告しました。
この条約は翌年1月に失効するもので、本来であれば条約を改定すべきなのですが、アメリカはこの条約改定を盾にして、日本の中国進出を止めようとしました。
ところが、日本側がこれを拒否したため、日米通商航海条約は1940年1月に失効し、日米間は無条約状態になってしまいます。
1940年夏にドイツが電撃作戦を決行して、フランスとオランダを占領すると、東南アジアにおけるフランスとオランダの植民地(フランス領インドシナとオランダ領東インド)は宗主国を失うことになりました。
日本はこれをチャンスととらえて、同年9月に北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐しました。
アメリカはこうした日本の東南アジア進出を止めるため、1941年1月にワシントンで米英軍事参謀会議、さらに同年4月にシンガポールで米英蘭連合作戦会議(ABD会議)を開催し、対日政策を討議して、防衛兵力の増派を決定しました。
これがABCD包囲網の原型となります。
③対日政策の強化へ
ところが、日本は東南アジア進出を思いとどまるどころか、1941年7月に南部仏印に進駐します。
こうしてオランダ領東インドへの進出も視野に入れるようになります。
これにより、各国の対日政策はより厳しいものになっていきます。
ABCD包囲網の内容詳細
①「ABCD包囲網」という呼称
ABCD包囲網とは、東南アジアへの進出を目論んでいた日本に対して、アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国が1941年から経済制裁を行った状況を指します。
ABCDはAmerica(アメリカ)、Britain(イギリス)、China(中国)、Dutch(オランダ)の頭文字を取ったもので、「ABCD包囲陣」や「ABCDライン」という表現も使われました。
「ABCD」というまとめ方は、当時の日本側の見方によるものです。
そうした見方の根底には、これら4カ国(あるいはソ連も加えて5カ国)が日本に対抗して軍事同盟を作ろうとしているのではないかという憶測がありました。
ABCD包囲網という名称は、国民に対して対外危機をアピールするために造られたものです。
「外国に包囲されている」という強迫観念を国民に植え付けることで、国民の結束を強める意図がありました。
②ABCD包囲網の実態
ABCD包囲網は、主に通商航海条約の破棄、日本の資産凍結、石油の全面禁輸という形で現れました。
(1)通商航海条約の破棄
1940年1月に日米通商航海条約が破棄されたのに続き、1941年7月には日英通商航海条約が破棄されました。
当時、フランスとオランダはすでにドイツに占領されていたため、この二つの条約破棄により、日本は連合国側と無条約状態になってしまいます。
こうして日本は日独伊三国同盟を頼りにするしかない状況に追い込まれます。
(2)日本の資産凍結と石油の全面禁輸
当時の新聞によれば、ABCD包囲網は1941年7月に完成したととらえられています。
これは、日英通商航海条約の破棄とともに、アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国が自国内の日本の資産を凍結した時期に当たります。
なお、ここで言う「オランダ」は、ドイツ占領下のオランダ本国ではなく、オランダ領東インドを指します。
この資産凍結により、日本はこれら4カ国との貿易に制限をかけられることになります。
また、翌8月にはアメリカが日本に対して、石油の全面禁輸を実施。軍事物資であった石油を調達できなくなったことは、日本にとって大きな痛手となりました。
これにより、日本政府はもはや対米開戦を避けられないと考えるようになります。
こうして同年12月8日に、日本はハワイの真珠湾にあった米軍基地を攻撃するとともに、アメリカに宣戦布告し、アジア・太平洋戦争に突入していきます。
ABCD包囲網の影響
ABCD包囲網、ABCD包囲陣、ABCDラインといった言葉は、1941年7月以降、軍部の指導を受けた新聞や雑誌で頻繁に使われるようになっていきます。
例えば、当時の朝日新聞では、1941年8月7月29日~11日にかけて、「対日包囲陣とわが臨戦態勢」という全11回の連載が載り、さらに8月16日~21日にかけては、「ABCD包囲陣」という全6回の連載が載りました。
こうして国民は連日「ABCD包囲網」やそれに類する言葉を目にするようになります。
こうした記事の主な論調としては、ABCD包囲網がアメリカの陰謀であり、対日政策としては完全に的外れであるという強気なものがほとんどでした。
また、ABCD包囲網の裏では、アメリカを中心に、ソ連も巻き込んだ大規模な軍事同盟が結ばれようとしているのではないかという憶測を書いた記事もありました。
このように、ABCD包囲網という言葉は、アメリカの陰謀説を国民に信じ込ませ、対外危機を煽ることで、総力戦体制へと国民を駆り立てることになりました。
まとめ
✔ 日本は1930年代後半、来たる日米開戦に備えて石油を確保するため、東南アジアへの進出を目論んでいた。
✔ アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国は、これを阻止するために、日本に対して経済制裁を始めた。
✔ 日本はこの状況を「ABCD包囲網」と呼んだ。
✔ ABCDは経済制裁を行った4カ国の頭文字を取ったものである。
✔ 「ABCD包囲網」は、日本の軍部が国民の危機感を煽るために造った言葉である。
✔ 新聞や雑誌などを通して、この言葉は国内に広く流布し、総力戦体制を整える上で重要な役割を果たした。