菅原道真による遣唐使廃止以降、日本ではかな文字の発達に代表される国風文化が発展し、表向きには国交や通商に対して消極的な姿勢を取ってきました。
平忠盛が独自に交易を始め平清盛が宋との貿易を政策としてすすめると、日本の経済や宗教、文化に大きな影響を与えます。これが「日宋貿易」です。
今回はこの『日宋貿易』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
日宋貿易とは?
(11世紀の宋の位置 出典:Wikipedia)
日宋貿易とは、10世紀から13世紀にかけて行われた日本と中国の宋との間で行われた貿易のことです。
遣唐使廃止以降は中国との正式な国交は行われていませんでしたが、宋の商人が来航し私貿易は続いていました。
宋が硫黄や木材を必要とするようになると、日本との貿易は徐々に活発になります。
平忠盛は宋との貿易に目をつけて貿易で利益を生むようになります。
さらに平清盛は日宋貿易を拡大し、利潤が平氏政権の経済基盤になるだけでなく宋銭の流入によって貨幣経済が発達するなど日本の経済や文化に大きな影響を与えました。
日宋貿易前の日中関係
遣唐使廃止によって日本と中国の正式な外交は途絶えることになります。
これには唐の衰退も影響しており、日中の外交は中国の王朝の盛衰によるものも大きくなります。
①遣唐使廃止
遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。
10数回の遣唐使によって、遣隋使にも派遣されている犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)や高向玄理(たかむこのげんり)のほか、吉備真備(きびのまきび)らが派遣されています。
この遣唐使は894年に菅原道真によって廃止されますが、すでに838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。
唐の衰退から政治的な意義を失いつつあること、留学生に対する唐の対応の悪化、さらには渡航途中での遭難が頻発すること、拒否して逃亡するものも現れたことなども廃止の要因となりました。
また、遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていたため、遣唐使の間隔が長くなることで航海技術や造船技術の低下を招きました。
これが、遭難の頻発につながったと考えられています。
②遣唐使廃止後
渡海制から年紀制と呼ばれる商船が前回の渡航から次回の来航までに10〜12年の間隔を空けるよう制限する取り決めが採用されました。
しかし、10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認める一方、宋や高麗に密航する日本船も見られるようになります。
商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物(からもの)の人気が根強かったことも理由の一つで、私的な貿易として唐物が輸入されていました。
(唐物「漁村夕照図」 出典:Wikipedia)
また、この頃、国風文化が生まれたとされますが、貴族の生活や文化は唐物の影響を大きく受けていました。
唐や宋の商人は、年紀制では日本での滞在期間が定められていなかったこともあり、大宰府近くの博多に唐坊(とうぼう)という居留地を形成して貿易を行っていました。
日宋貿易の変遷「貿易理由と貿易品」
日宋貿易では中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。
北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になり、南宋時代には平清盛によって拡大され医療においては欠かせないものになりました。
①北宋時代
北宋が成立した960年になると、北宋は各地に貿易の事務管理をする役所を設置して、日本や高麗のほか南方とも貿易を行いました。
日本とは大宰府鴻臚館(こうろかん)で貿易が行われていましたが、貿易は活発にならず日本と宋の正式外交にはつながりませんでした。
また、一般人の渡航は禁止されますが、宋の商人が来航する私的な貿易は続いていました。
このころから日本から北宋への硫黄の輸出が始まり、のちに宋政府の大量買付計画があったとされています。
硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでしたが、硫黄が採れる地域は遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などの国々が支配する地域にしかなかったため、日本からの輸入に頼るという事情がありました。
日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まり、11世紀後半には宋の商人による買付が何度も行われていたという記録が残っています。
②南宋時代
1126年に南宋が成立すると、支配地域の経済的が発展し人口も急増しました。
これにより、木材の需要が高まり山林を伐採した結果、森林資源が枯渇し、日本からの木材輸入に頼ることになります。
同時に疫病に悩まされていた南宋で漢方医学が発達すると、この最新医学の知識や薬品は日本に伝わり医療に欠かせないものとなっていきます。
③平忠盛と日宋貿易
(平忠盛 出典:Wikipedia)
忠盛は1123年に越前守となり、宋船が博多だけでなく越前国敦賀まで足を延ばして貿易することがあることを知ります。
このときに宋との貿易で利益に目をつけました。
1129年には備前守となっていた忠盛は、白河法皇の院宣により山陽道・南海道の海賊追補使(かいぞくついほうし)に任命されると、瀬戸内海を荒らしていた海賊の鎮圧にあたります。
同年、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の院政が始まりました。
忠盛は鳥羽院御願として千体観音像を造営するなど、鳥羽上皇の信任を厚くし高位の官位にしか認められない昇殿を許されます。
そののち希望して肥前国神崎荘の預所(あずかりところ)になると、1133年には鳥羽上皇からの命だと書類を偽造し日宋貿易を管轄する大宰府の介入を拒否し貿易を中止させます。
1135年の海賊蜂起の折には、瀬戸内海など日宋貿易のルートにのさばる海賊の追討使に任命されると、海賊を討伐し武勇を高めます。
こうして忠盛は宋との私貿易を展開し、平氏繁栄の基礎となる巨万の富と地位を得ることとなりました。
④平清盛と日宋貿易
(平清盛 出典:Wikipedia)
清盛は1158年に大宰大弐(だざいだいに)となるなど日宋貿易と深い関わりを持ち続け、1168年に出家すると福原を拠点として厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に注力しました。
1173年には日本初の人工港となる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修に着手し、私財を投じた難工事は二年後に完成します。
他には、瀬戸内航路の備前国牛窓や備後国柄・尾道などが整備され、広島県呉市と倉橋島を隔てる海峡である音戸(おんど)の瀬戸を開削しました。
清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたが、瀬戸内航路の整備や沿岸の地域に大きな影響をもたらします。
地域を活性化させながら、西国における支配力強化につなげています。
日宋貿易の輸出入品とその影響
(輸入品の北宋銭 出典:Wikipedia)
①日本の輸入品
宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・茶・高級織物・文具・木綿
日本では皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という銅銭がありましたが、12世紀後半より宋銭の流通が本格化します。
経済活動を一般化させる出来事となりますが、一方でそれまでの基準となっていた絹の価値が下げ、朝廷財政を圧迫することにつながり朝廷との確執は大きくなりました。
②日本の輸出品
砂金・硫黄・木材・刀剣・扇・漆器・蒔絵(まきえ)・真珠・水銀・螺鈿(らでん)・屏風
硫黄は当時の南宋では火薬の発明とともに需要が急増しますが、宋では硫黄はさほど採れないため日本からの輸入は貴重なものでした。
木材も宋での不足により大量に輸出されます。
まとめ
✔ 日宋貿易とは、10〜13世紀に日本と中国の北宋および北宋の滅亡後は南宋とで行われた貿易のこと。
✔ 遣唐使廃止後に中国と国交が途絶えるものの大宰府を中心とする私貿易は続き、徐々に貿易が活発化すると、12世紀前半以降は平忠盛や平清盛が中心となりさらに拡大させた。
✔ 硫黄や木材などが宋の事情によって日本から宋に大量に輸出され、宋から輸入し貨幣として本格的に流通した宋銭は日本の経済活動に大きな影響を与えた。