【開拓使とは】屯田兵との違いは?簡単にわかりやすく解説!!設置までの流れなど

 

明治維新後、新政府は本格的な北海道、北方領土の開発に乗り出します。

 

その背景には、「日本の近代化政策」と欧米列強の1つであるロシアが関係しています。

 

今回のテーマである「開拓使」と「屯田兵」の違いもしっかり押さえて、北海道の発展と対ロシア政策について学びましょう。

 

そして今回は北海道の表記を幕末は「蝦夷地」、開拓使設置後は「北海道」として解説していきます。

 

開拓使と屯田兵の違い

 

 

開拓使とは「蝦夷地(北海道)、北方領土開発の第一線の国家主体の組織」のことで、屯田兵とは「北海道開拓のために、本土から渡った士族たち」のことを指します。

 

つまり、開拓使は北海道開拓を行う機関の名前で、屯田兵は開拓事業を行った人々ということですね。

 

ではもっと詳しく解説をしていきます。

 

開拓使とは?

(開拓使本庁舎 外観の再現 出典:Wikipedia

 

 

簡単に言うと、「蝦夷地(北海道)、北方領土開発の第一線の国の組織」です。

 

設置期間は1869(明治2)年から、1882(明治15)年で、その権力は中央官庁の中でも「省」に位置していて、それはつまり蝦夷地、北方領土開拓が明治政府の行う事業の中でもトップクラスの事項だったことを示しています。

 

また、開設された当時は東京に置かれていましたが後に札幌に移ります。

 

補足として、蝦夷地が「北海道」と名称が変化したのも開拓使が設置されたときです。

 

開拓使ってそんなに重要なの?

幕末から明治にかけての政治組織の体制(中央官制)の変化の流れは覚えていますか?

 

江戸時代は幕府に政権がありましたが、明治維新後は天皇に政権が移りました。

 

その間に政治を行う組織の体制は「三職」→「太政官制」→「内閣制度」と変化していきます。

 

開拓使は、太政官制が行われていた時期に設置されました。

 

 

ここではちょっと掘り下げて、太政官制の中でも開拓使が設置された「二官八省制」と廃止されるまでの「三院制」について簡単に説明します。

 

①1869(明治2)年~1871(明治4)年「二官八省」

太政官の上に神祇官を設置して復古を強調!

トップ:天皇

官 :神祇官・太政官

省 :大蔵省・兵部省・民部省・大学校・開拓使・刑部省・弾正台・宮内省

※省は太政官の管轄

 

②1871(明治4)年~1885(明治18)年「三院制」

神祇官を神祇省に格下げ。太政官の権力を強める!

トップ:天皇

官 :太政官(最高機関:正院/ 協議機関:右院/ 立法機関:左院)※右・左院は75年廃止

省 :神祇省…教部省・大蔵省

兵部省…陸軍省・海軍省

外務省

文部省 内務省 農商務省 

工部省

開拓使

司法省 大審院 参事院

宮内省

元老院 ※75年に左院が廃止され元老院となる

※省は太政官のうちの正院の管轄

 

つまり開拓使は、国家経済を担当する大蔵省と肩を並べる程の位置に置かれていたのです。

 

そして、開拓使が設置された翼々年の1871(明治4)年に行われた廃藩置県では、北海道は開拓使の管轄となりました。

 

 

開拓使が設置された理由

(蝦夷地に居住していたアイヌ民族)

 

 

次に設置理由について説明します。

 

本土より北、つまり蝦夷地や北方領土の開発は幕末から行われていましたが、本土とは全く異なる自然環境や、アイヌの人々との関係から失敗に終わります。

 

ですが、明治維新後は「省」と同格の権力を持たせて重要視していきました。

 

その背景には、日本の「近代化政策」と欧米列強「ロシア」が大きく関係しています。

 

では近代政策の面と、対ロシア政策の2つの面からみてみましょう。

 

近代化政策『殖産興業』

(富岡製糸場 出典:Wikipedia

 

 

明治政府は、日本の近代化の重要課題として「富国強兵」「殖産興業」を挙げました。

 

 

北海道においては特に「殖産興業」の面で重要になってきます。

 

殖産興業とは、「欧米諸国の経済制度・技術・設備・機械等を導入して政府主体で近代産業の育成を行うこと」です。

 

例えば、群馬県の富岡製糸場もその1つですね。

 

北海道では、次に触れる「樺太千島交換条約」の提案者である開拓次官 黒田清隆によって、高額な国費をかけた開拓使「10年計画」が立てられ、本格的な開拓が始まります。

 

①アメリカの農務長官「ケプロン」に開拓使顧問を依頼

ケプロンは1871(明治4)年~1875(明治8)年まで顧問を務めます。

 

開発前のアメリカは、蝦夷地の様子ととても良く似ていました。

 

アメリカには原住民としてインディアンがいましたし、蝦夷にはアイヌの方々が生活をしていました。

 

自然環境もよく似ていたため、アメリカ開発の経験を学ぼうとケプロンに顧問を依頼し、アメリカの技術を取り入れた方法で開拓を行っていきました。

 

1876(明治9)年 クラークの来日と「札幌農学校」の設立

Boy’s be ambitious!」の名言で知られるクラークが来日し、同年北海道の農業改良・生産発展の教育施設である「札幌農学校」が設立されます。

 

クラークはそこで教頭を務めました。

 

これにより北海道の農業は大きく変化し、日本有数の農業地へと生まれ変わりました。

 

また札幌農学校は後の初代総理大臣 伊藤博文など多くの政治家達が卒業していきました。

 

対ロシア政策『不平等条約の改正』

 

 

幕末、日本は欧米列強から軍事的圧力をかけられて不平等な条約を結んでしまいます。

 

その中でも、明治政府にとってアメリカの次に次いで恐れていたのが日本に最も近いロシアでした。

 

①1854(安政元)年 「日露和親条約」

幕末、ロシアはアメリカのペリーに次いで1853(嘉永6)年プチャーチンが長崎に来航し、開国と北方の国境の取り決めを迫ってきました。

 

結果、翌年の1854(安政元)年下田にて「日露和親条約」を結び、長崎開港と北方の国境について不平等な条件のまま条約を結んでしまいます。

 

 

北方の国境については、以下の通りです。

北方の国境

ロシア領:千島列島の得撫島以北

日 本領:千島列島の択捉以南

両国人雑居:樺太

 

②1875(明治8)年 「樺太千島交換条約」

明治維新後新政府は、不平等条約改正に乗り出します。

 

ロシアとは、日露和親条約の中であいまいになってしまっていた樺太の領有権、つまりどちらの領地にするかについて取り決めを行います。

 

その背景には、ロシアがクリミア戦争に負けたことによって樺太進出を今まで以上に強化してきたためでした。

 

そこで結ばれたのが開拓次官 黒田清隆が提案した「樺太千島交換条約」です。

 

 

この条約によって、樺太はロシア領、千島全土を日本領としました。

 

そしてさらに、この条約によって新政府は北海道開拓にさらに力を入れることになります。

 

つまり幕末から、ロシアからの軍事的な圧力を受けるようになったため日本を守るために、ロシアに最も近い北海道の開発を重要視するようになったというのが設置の一番の目的です。

 

屯田兵制とは

(納内村に建てられた屯田兵屋 出典:Wikipedia

 

 

では次に屯田兵制について解説します。

 

実際北海道の開発作業を誰が行ったのでしょうか?

 

それは主に屯田兵制によって北海道に渡った主に東北の士族とアイヌの人々が行ったのです。

 

①1875(明治8)年~1904(明治37)年 屯田兵制度

開拓次官の黒田清隆の提案によって定められた北海道開拓動員制度です。

 

当時貧困だった東北の士族つまり武士たちに北海道開拓の動員募集をかけ北海道に住まわせました。

 

彼らに任された仕事内容は主に農業で、さらにロシアの警備にもあたらせました。

 

農業といっても幅は広く、農耕や畜産、酒造などを行いました。北海道といえば、麦が原料のビールや食文化であるジンギスカンも有名ですね。

 

ビールに関しては北海道開拓の見本とした、アメリカの技術がお手本です。

 

屯田制では、「士族授産」、つまり明治維新後職を失ってしまった士族たちに仕事を与えることを売りにして、多くの士族たちが北海道に渡り農業や畜産を行いました。

 

 

では、すでに蝦夷に住んでいた、アイヌの人々はどのような扱いを受けたのでしょうか。

 

②アイヌ同化政策

明治維新後、政府は「同化政策」を行います。

 

同化政策とはアイヌの人々を「強制的に日本人として扱う」政策です。

 

アイヌ独自の文化を捨てさせて、農業に専念させ、農作業ができない人々は処分をされてしまいました。

 

その結果、多くのアイヌの人々が土地を奪われ、生きていくのも難しい状況まで追い込まれてしまいました。

 

まとめ

 開拓使とは「蝦夷地(北海道)、北方領土開発の第一線の国家主体の組織」のことで、屯田兵とは「北海道開拓のために、本土から渡った士族たち」のこと。

 北海道開拓は明治政府にとって国家をあげた重要課題

 開拓使設置の目的は、近代化と対ロシア政策

 開拓を行ったのは、屯田兵制によって北海道に渡った士族。

 成果として、「札幌農学校」の設置、殖産興業の発達。