【日ソ基本条約とは】わかりやすく解説!!条約の背景やその後の日ソ関係について

 

近現代史にでは条約を覚えるのは必須事項です。

 

ですが、似た名前の条約がたくさんあって困りますよね。日ソ基本条約、日ソ中立条約、日ソ共同宣言…。

 

今回取り上げるのは日ソ基本条約です。名前の通り、日本とソ連の基本的な関係を定めた条約です。

 

今回は、その内容とその後の日ソ関係についてわかりやすく解説します!

 

日ソ基本条約とは?

 

 

日ソ基本条約とは1925年10月、日本とソ連の基本的な関係を定めた条約のことを言います。

 

その当時の総理大臣は加藤高明、外務大臣は幣原喜重郎、ソ連側の最高指導者はスターリン、外交担当者はカラハンです。

※カラハンはほかにもいろいろ出てくるから、要注意人物です

 

日ソ基本条約の内容は主に以下の通りです。

日ソ基本条約の内容

①互いに相手国に代表(領事)を送って外交関係を結ぶ

②お互いの国の政治に口出ししない(内政不干渉)

③ポーツマス条約はソ連との間でも有効

④日本が北樺太の石油・石炭開発権をゲット!

 

この条約を結んだ後、日本は北樺太から兵を引きました。

 

日ソ基本条約の背景『日本とロシアの関係』

(日露戦争 1904年朝鮮出兵時の日本兵 出典:Wikipedia

①日露戦争~ロシア革命前

1904~1905年に行われた日露戦争後、何度か日露協約を結び、互いの勢力圏を定めて友好的な関係を築きました。

 

 

②ロシア革命とシベリア出兵

第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が起きました。

 

日英同盟を理由として連合国に参加していた日本にとってロシア革命は困ったことでした。

 

勝手に戦争から手を引いたソ連に対して、連合国が袋叩きをするように一斉に出兵します。これをシベリア出兵といいますね。

 

 

③シベリア出兵により、日ソは戦争突入!でも、長期戦となる…

アメリカ・イギリス・フランスなどとともに、ロシア東部にあるシベリアに日本は軍隊を送りました。

 

ところが、戦いはずるずると長引き、1917年~1922年まで5年にわたって続きました。

 

日本はこの戦争で巨額の戦費を投入しましたがほとんど得るものはありませんでした。

 

日ソ基本条約の締結!交渉推進の立役者は外相・幣原喜重郎

(幣原 喜重郎 出典:Wikipedia

 

 

北樺太から日本兵が撤退した年に、日ソ基本条約を締結し、仲直りします。

 

幣原 喜重郎は協調外交を行ったことで有名な外交官です。

 

協調外交とは、他の国と話し合いを重ねて歩み寄り協力して行う外交のこと。(幣原が中心となって行ったので、幣原外交ともいわれます)

 

ただ、話し合いをすれば日本の言い分だけが通ることはなく、どこかで妥協しなければなりません。

 

そうした幣原の姿勢は時に「軟弱だ!」と責められることもあり、五・一五事件以後、協調外交は影を潜め、軍部による強硬外交が行われました。

 

 

条約を結びたかった2つの理由

①経済的理由

日本側の一番大きな理由は経済的なものです。

 

日本海側の町はソ連の沿海州と貿易を行っていましたがソ連との関係が悪化してそれができなくなりました。

 

また、北海道のオホーツク海沿岸で漁業を行っていた漁師はソ連側の住民から漁を妨害されていました。

 

こうした状況を改善したいという世論が日本国内で生まれ始めていました。

 

②ソ連の中国進出

ソ連は国内が徐々に安定してきていました。

 

落ち着いてきたソ連は、中国との連携を探り始めました。

 

このままでは、せっかく日露戦争の講和条約で獲得した満州(今の中国東北地方)での権利が脅かされかねません。

 

国内では、依然として反対意見が強かったのですが、それでも、条約を結ぶべきだという主張が出始めました。

 

20世紀に対立した二つの仕組み ~資本主義と社会主義~

このころ、世界では社会や経済の在り方をめぐって二つの考えが対立していました。

 

一つは、ヨーロッパやアメリカで発達した資本主義の考え方。

 

個人や企業の財産を保証し、利益を追求することで経済を発展させていく考え方でした。

 

しかし、資本主義の考え方ではお金持ちである資本家の力が強く、給料をもらって働く側の労働者の力は弱いものでした。

 

資本家が「クビ」と宣言すれば、労働者たちはたちまち失業して生活に困ります。だから、安い賃金でも我慢して働いていました。

 

ロシア革命の恐怖!資本主義諸国は社会主義にビビりまくった!

(1922年のウラジーミル・イリイチ・レーニン 出典:Wikipedia

 

 

労働者たちの不満を集めて皇帝や貴族、資本家などを倒したのがロシア革命でした。

 

革命の指導者レーニンは社会主義の考えで国づくりをしようとします。

 

社会主義は土地や工場などの生産手段を社会全体が共有し、誰かが独占しないようにすることで、みんなが平等に財産を得られる社会を目指しました。

 

実際、レーニンは貴族や大地主から土地を取り上げました。

 

ロシア革命の成功は、世界各地にいた資本主義の考え方を批判する人々に大きな影響を与え、その活動が活発化しました。

 

世界の大半である資本主義諸国は社会主義の考え方が自分たちの国にもやってきて、革命を起こすのではないかと恐れました。だから、ソ連と仲良くしようとする国がなかなか現れなかったのです。

 

日本も、ソ連の影響を恐れた国の一つでした。

 

社会主義の防波堤『治安維持法』

日本は日ソ基本条約を結んだ後で、治安維持法を制定しました。

 

内容は、国の制度(国体)を変えることや私有財産を否定することを目的とする団体をつくることを禁じるものです。

 

国の制度を変えること(国体の変革)を認めてしまえば、日本でもロシア革命のようなことが起きるかもしれません。

 

そうなれば、天皇を倒し、大日本帝国憲法のもとで作られた日本社会が崩壊してしまうと政府は心配したのです。私有財産の否定は社会主義の重要な考え方でした。

 

治安維持法を制定することで、もし、日ソ基本条約を結んだ後にソ連の影響を受けた人が日本国内に入ってきても、革命を起こすような活動を防ぐことができると当時の政府が考えたということです。

 

 

日ソ基本条約後の日ソ関係

①ノモンハン事件

日ソ基本条約を結ぶことでお互い外交関係を結びましたが、一気に友好的になるところまではいきませんでした。

 

ソ連は引き続き中国への進出を図ったため、満州の権利を守りたい日本と緊張状態にありました。

 

1931年に日本が満州国を作った時もソ連は満州国を認めませんでした。満州国には日本軍の一部隊である関東軍が駐留していましたが、関東軍とソ連軍との間で何回か戦闘が起きています。

 

その最大のものがノモンハン事件でした。

 

この戦いで不利になった日本はソ連領土への侵攻に慎重になりました。

 

②日ソ中立条約

日本とソ連はノモンハン事件以来、緊張状態にありました。

 

そのころ、目覚ましい成長を遂げていたのがドイツです。ドイツは領土をどんどん拡大していました。

 

そのドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだのです。

 

 

これを見た日本は、ドイツと日本でソ連を挟み撃ちにすることは無理だと考えます。

 

それならば、1940年に結んだ日独伊三国同盟にソ連も仲間入りさせたほうがアメリカに対抗できると日本は考えました。

 

1941年、日本はソ連と日ソ中立条約を結びお互いに攻め込まない約束をしました。

 

 

③日ソ中立条約の破棄と北方領土占領

1941年、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に攻め込みます。

 

日本は日ソ中立条約を守ってソ連に攻め込みませんでした。

 

太平洋戦争で日本が不利になると、ソ連はアメリカの呼びかけに答え、日ソ中立条約を破棄して日本に攻め込みました。この時に北方領土が占領されてしまいます。

 

日本とソ連が国交を回復するのは戦後の鳩山内閣による日ソ共同宣言まで待たなければなりませんでした。

 

まとめ

 三・一独立運動は1919年に起きた、朝鮮半島における独立運動。

 条約を推進したのは協調外交で知られる幣原喜重郎でした。

 経済的理由などから、日本国内でもソ連との関係改善の声が上がりました。

 社会主義の侵入を恐れる日本は、治安維持法を制定しました。

 日ソ基本条約後も日本とソ連の緊張関係は続きました。

 互いに攻め込まないとした日ソ中立条約を結びましたが、大戦末期に破られました。