日本がいろいろ変わる歴史転換点はいろいろありますが、やはり第二次世界大戦が一番日本にとって重大な転換点だったと思います。
今回はそんな『太平洋戦争』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
太平洋戦争とは?
(太平洋戦争 出典:Wikipedia)
太平洋戦争とは1941年から1945年にアメリカ・イギリスなどの連合国と日本との間に行われた戦争のことです。
アメリカの経済制裁をきっかけに、開戦。戦況はミッドウェー海戦を境に負け続けます。
サイパン島の占領・硫黄島の戦い・東京大空襲・沖縄本土戦・原爆投下。結果日本はポツダム宣言を受諾、敗戦が決まりました。
この戦争は、日本の歴史の大きな変革点であり、その後日本のかじ取りはGHQにゆだねられることになります。
太平洋戦争に突入するまで【背景や原因】
①日本の南進
日中戦争が始まってから4年が経過した1940年。この当時日中戦争は泥沼状態となっており、日本は石油などの資源が不足していました。
資源が無かったら何にもできない。焦りに焦った日本は資源地帯としても有名であったインドネシアやインドシナ半島を占領してその資源を確保しようと企みます。
日本はヨーロッパで降伏したフランスに対してフランスの植民地であった仏領インドシナに進駐して支配下に置く行動をとりました。(仏印進駐)
この進駐によって日本はインドシナ半島を占領下に置いてしまいました。
(サイゴン市内を進駐する日本軍 出典:Wikipedia)
これにはイギリスやアメリカやオランダなどは大ブーイング。日本の目に余る行為にもう我慢できなくなったアメリカはイギリスとオランダと協力して日本に一滴も石油を輸出しない経済制裁を行います。
これをアメリカとイギリスとオランダと中国の頭文字をとってABCD包囲網と言ったりします。
②困った日本とハルノート
アメリカが日本に対して石油を輸出しなくなってしまった。
これは日本に激震が走るとんでもない事態を引き起こしてしまいます。
当時日本は石油の8割程度をアメリカに依存しており、もしアメリカの石油が来なくなってしまったら日本にとっては死活問題です。
当時の首相であった近衛文麿はこの状況を打破しようとアメリカのルーズベルト大統領と昭和天皇の会談を開いてなんとか事を収めたいとしましたが失敗。
(近衛文麿 出典:Wikipedia)
さらにアメリカは日本に対する経済制裁を解除する条件として
✔ 日本が中国から全面撤退すること
✔ 日独伊三国同盟を破棄すること
✔ 満州国を解体すること
を提示した通牒を送ります。
これを当時のアメリカ国務長官であるコーデル・ハルの名前からハルノートと呼ばれています。
当時日本国内では新聞やラジオなどで伝わっていた「日本戦争の快進撃いけいけどんどん」だった時代もあって日本国民や軍部などでは「こんな条件を呑むのであれば戦う方がマシだ!」という戦争強硬派の人たちがどんどん主張していきます。
1940年12月1日には御前会議という天皇の含めた会議でアメリカとイギリスとの開戦を決定。
ついに太平洋戦争が幕を開けることになりました。
太平洋戦争初期の戦況
(山本五十六 出典:Wikipedia)
①真珠湾攻撃
12月1日の御前会議にて開戦が決定しましたが、連合艦隊艦長である山本五十六は「最初の1,2年は暴れてみせますが、それ以降は保証しません」と言われているように奇襲を行わなければアメリカには勝てないと主張していました。
そこで海軍はアメリカ海軍の太平洋における最大の海軍基地である真珠湾を叩けば太平洋のアメリカの拠点を制圧でき、さらにアメリカ国内の戦意低下を引き起こして日本に有利な条件で講和を結ぶという作戦を立案します。
日本はこの作戦を採用し、連合艦隊は真珠湾に向かって進撃していくことになりますが、ここで問題点としていつ宣戦布告を「するか、しないか」が問題となりました。
世界の戦の常識として戦争を行う場合はまずは最後通牒を送り、そこからさらに宣戦布告をするというものがありました。
これをしなければただのだまし討ちです。日本はこの常識にのっとって真珠湾攻撃の30分前にアメリカに宣戦布告するとしました。
しかし、肝心の駐米大使館が最後通牒を送りつけるのにもたついてしまい、なんと真珠湾攻撃をしてから40分後に宣戦布告をするという最悪のミスをしてしまいます。
これにはアメリカ国民は大激怒。リメンバーパールハーバーを合言葉にアメリカは日本に対して徹底的に戦う姿勢を見せてしまう結果となってしまいました。
②最初の快進撃
(日本の奇襲攻撃。アリゾナ戦艦の炎上の様子 出典:Wikipedia)
最悪の状態で始まってしまった太平洋戦争ですが、真珠湾攻撃自体はアメリカの戦艦などを沈めて行動不能にするなどの大戦果をあげました。
これに勢いづいた日本はフィリピン・インドネシア・マレー半島などに侵攻。
マレー沖海戦にてイギリス艦隊を撃破した日本はシンガポールなどの太平洋における重要拠点を続々と占領していきます。
しかし、日本が思い描いていた講和の状態には全然ならず、日本は一番避けたかったであろう持久戦に突入していきます。
苦しくなる戦況
(日本の戦艦に爆撃を行うアメリカ爆撃機 出典:Wikipedia)
①連合軍の反攻
1942年6月、日本はアメリカの支配下にあった島であるミッドウェー島を占領しようと連合艦隊を進撃します。
しかし、アメリカはこの動きを察知。
奇襲を仕掛けて日本の赤城や加賀など4隻の空母を失ってしまい、太平洋における制海権をアメリカに奪われてしまいます。
8月にはガダルカナル島の戦いで敗北。
この頃から各地で日本の敗北が目立っていき、日本軍が全滅してしまう玉砕も出てしまいます。
②日本の敗北への道
(サイパン島に上陸するアメリカ軍 出典:Wikipedia)
1944年6月、アメリカはどんどんジリ貧となっていた日本にとどめを刺すかのようにサイパン島に上陸。サイパン島の日本守備隊は玉砕し、アメリカはサイパン島を占領します。
サイパン島は日本の主要都市に空襲できる最重要拠点地であり、これを失ってしまった日本は責任を取るかのように東條英機が首相を辞職しました。
さらにマリアナ沖海戦にて連合艦隊ば大損害を受けてしまいました。
この頃になると日本の敗戦は決まったのようなものになっていきますが、アメリカは全然手を緩めずに次は日本に奪われたフィリピンを奪還するためにレイテ島沖でレイテ沖海戦が行われます。
この海戦にて日本は戦艦武蔵を含む主力艦が沈没。連合艦隊が壊滅となってしまい、フィリピンはアメリカに奪還されました。
ちなみに神風特攻隊はこの時に初登場しました。
日本の敗戦
(硫黄島に上陸したアメリカ軍 出典:Wikipedia)
①硫黄島の戦いと沖縄戦
1945年2月、アメリカ軍は硫黄島に上陸。摺鉢山で激闘を繰り広げられた上で日本は玉砕。アメリカ軍この時の兵力の3分の1を失う激戦地となりました。
さらに3月には本土上陸の手始めとして沖縄本島に上陸。10万人の兵力を擁して上陸したアメリカ軍に対して日本は特攻を行い3ヶ月にもわたって戦闘が行われます。
ひめゆり学徒隊は有名ですね。
この戦いによって日本は軍人9万人、民間人10万人が戦死。沖縄本島は占領されてしまいました。
さらにこの頃日本本土でもB29によって日本各地で空襲が相次ぎ、3月10日の東京大空襲では10万人が亡くなり、さらに空襲によって日本の産業は壊滅しました。
②日本の敗戦「ポツダム宣言と原爆投下」
1945年7月26日、同盟国であったドイツが降伏した3ヶ月後にドイツのポツダムでポツダム宣言が発表されます。
この宣言には日本の無条件降伏について書かれており、これを受け入れなければ徹底的に日本を潰すとしました。
しかし、政府はこのポツダム宣言を黙殺。
これを受けてアメリカは最新兵器である原子爆弾を8月6日に広島、8月9日に長崎に投下。
(広島に投下された原子爆弾 出典:Wikipedia)
広島・長崎合わせて約46万人の死傷者を出す大惨事となりました。
これに耐えられなくなった日本政府はついに8月15日にポツダム宣言を受諾。玉音放送が流されて日本は無条件降伏を受け入れました。
(玉音放送を聞く国民 画像引用元)
そして9月2日日本はアメリカに対して降伏。日本はこの後GHQの占領下に置かれることになりました。
また、その後戦後処理として極東国際軍事裁判(東京裁判)が行なわれ、戦時中の指導者が戦争犯罪人として裁かれることになりました。
まとめ
✔ 太平洋戦争は日本とアメリカ・イギリス・オランダとの間で行われた戦争のこと。
✔ 戦争が起こる直前日本はアメリカの経済制裁を受けていた。
✔ 日本は最初の頃は快進撃を続けていたが、ミッドウェー海戦を境に負け始めサイパン島が占領されると日本本土に空襲が来るようになった。
✔ 日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏した。