【神風連の乱とは】わかりやすく解説!!場所は今の何県?三島由紀夫について

 

明治政府に反対する士族たちの反乱で、後の萩の乱・秋月の乱・西南戦争のきっかけとなるのが神風連(しんぷうれん)の乱です。

 

今回はこの『神風連の乱』についてわかりやすく解説していきます。

 

神風連の乱とは

(熊本暴動賊魁討死之図 出典:Wikipedia

 

 

神風連の乱とは、1876年(明治9年)に熊本市で起こった士族の反乱のことです。

 

明治政府に対する不平士族の反乱の一つで、敬神党の乱とも呼ばれます。

 

1876年10月24日に、旧肥後藩の士族である大田黒伴雄ら約170名によって、廃刀令に反対して起こされました。

 

士族側とも政府側にも多くの死亡者、負傷者を出しました。

 

なぜ神風連の乱が起こったのか?その背景とは?

 

 

それでは、明治政府に不満を持つ不平氏族の反乱が起こる背景には何があったのでしょうか。

 

①明治6年政変とは

明治が始まり6年目に起こった、征韓論を巡る一大政変です。

 

この政変で、参議、官僚、軍人と約600名が辞職するという事態になりました。

 

ことの発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題でした。朝鮮を武力でもって開国するという征韓論は、西郷隆盛や板垣退助などが主張していました。

 

そして、西郷隆盛が使節となって朝鮮に行くという意見が出されていたのです。

 

それに反対していたのが、岩倉具視大久保利通木戸孝充でした。

 

当時、外務大臣であった岩倉具視が外遊している間の留守政府として中心にいたのが西郷や板垣などであり、朝鮮を巡って意見が割れていました。

 

結局、岩倉具視が外遊から帰国し、征韓論に反対する岩倉の意見が明治天皇に受け入れられ、征韓論は退けられます。

 

それを機に西郷と板垣ら薩摩藩と土佐藩を中心とする官僚、軍人たちなどが職を辞したのです。

 

 

②自由民権運動と佐賀の乱

明治6年政変の後、下野した元参議たちが各々に明治政府に反する運動を組織していきます。

 

元土佐藩の武士であった板垣退助は、愛国党や立志社を結成して自由民権運動の始まりとなります。

 

 

元薩摩藩の西郷隆盛は地元の鹿児島県に帰り、西郷とともに職を辞した軍人、警吏たちも鹿児島県に帰ったことにより、無職で血気盛んな若者たちが増えます。

 

それを心配した西郷と有志者たちが、私学校を設立し、後に西南戦争へとつながります。

 

西郷と板垣とともに下野した参議の一人に佐賀藩の江藤新平がいました。

 

江藤は佐賀に帰り、そこで佐賀の乱を組織します。1874年2月に起こった佐賀の乱は、不平士族の初めての大規模反乱でした。

 

 

③廃刀令とは

佐賀の乱や自由民権運動などに見られる明治政府への反乱を抑えるため、政府は1875年に言論を抑圧する事を目的に新聞紙条例を発令します。

 

そして、1876年にはかねてから議論のあった刀を身に付けることを禁止する廃刀令が発布されます。

 

廃刀令によって、帯刀は禁止。帯刀とは武士の身分を証明するものだったため、それが禁止されたことにより、武士の特権とアイデンティティーが否定されたことになります。

 

廃刀令の制定は、明治6年政変により喚起された不平士族たちの不満をさらに高めるものになりました。

 

 

神風連の乱はいつ、どこで、誰によって起こされたのか?

(神風連の乱 出典:Wikipedia)

 

 

廃刀令により不平士族の明治政府に対する不満は高まり、神風連の乱は起こります。

 

それでは神風連の乱とはどのようにして起こったのでしょうか。また、敬神党とはどんな組織だったのでしょうか。

 

①反乱はいつ、どこで始まったのか。

1876年10月24日の深夜、敬神党のメンバーが分かれて熊本の陸軍司令官である種田政明と熊本県令(当時の知事)である安岡良亮の自宅に襲撃をかけて、反乱は始まります。

 

(安岡良亮 出典:Wikipedia)

 

 

種田と安岡、その他県庁の役人4名が殺害されます。

 

その後、メンバーたちは全員で政府軍の本拠地となっていた熊本城を襲撃し、陸軍の兵士たちを次々と殺害していきます。

 

翌朝には政府軍は児玉源太郎将校が駆けつけて反撃に出ます。将校は軍の態勢を立て直し、本格的な反撃に出て、敬神党のリーダーたちは死傷します。

 

②反乱は誰によって起こされたのか。

敬神党のリーダーたちは、旧肥後藩の士族大田黒伴雄・加屋霽堅(かやはるかた)・斎藤求三郎などです。

 

敬神党は、彼らを中心に約170名により構成され、旧肥後藩にあった教育方針を巡る三大派閥の一つでした。

 

敬神党は、国学と神道を基本とする教育を重視する勤王党の中で、明治政府に強い不満を持つグループにより結成されました。

 

神道への信仰心がとても強かったため、反対派から「神風連」と呼ばれていました。

 

また、メンバーには神職に就いていたものが多くいて、反乱をおこした時は、神社で祈祷を上げて挙兵したということです。

 

③反乱の結果

乱の中で加屋と斎藤は死亡し、大田黒は重傷を負います。

 

リーダーを失った敬神党のメンバーは熊本城から付近の民家に逃げ込み、その後ほとんどの者が自害しています。

 

敬神党の死者は自害した者も含めて約124名、残りの者は逮捕され、一部は斬首刑に処されました。政府側は、死者と負傷者は約260名でした。

 

現在、熊本市には、神風連の烈士たちを祀る桜山神社があります。

 

これは神風連の遺族たちが反乱で死亡した「123志士の碑」を建てたことがきっかけでした。

 

その後、桜山祠堂を建て戦後桜山神社となりました。境内には、神風連資料館も建設され、神風連や勤王党関連の品物を見ることができます。

 

神風連の乱の影響とその後

 

 

神風連の乱をきっかけとして、不平士族の反乱が相次ぐことになります。

 

どのような反乱がどこで起きたのでしょうか。また、神風連の乱が与えた影響とは何だったのでしょうか。

 

①相次ぐ士族の反乱

神風連の乱に呼応して、1876年の10月27日に秋月(あきづき)の乱が福岡県で起こります。

 

これは、旧秋月藩の士族たち約400名が兵を挙げ、反乱を説得していた警察官を殺害しました。

 

乃木希典率いる軍の反撃を受け、秋月党側は死者17名を出しました。その後、反乱の首謀者は逮捕され、斬首刑となっています。

 

さらに、1876年10月28日には、山口県萩で山口県士族約200名が兵を挙げた萩の乱が起こります。

 

この乱は、11月6日までに政府軍によって鎮圧されます。そして、やはり首謀者8名が斬首刑に処されています。

 

②日本史上最大の不平士族の乱、西南戦争

1876年に神風連の乱を皮切りに相次いで不平士族の反乱が起きますが、政府軍に鎮圧され、首謀者や反乱に参加したものたちには、懲役や除族という懲罰が下りました。

 

それにも関わらず、士族たちの不満は鎮圧された訳ではありませんでした。

 

翌年1877年には不平士族の最後にして最大の反乱である、西南戦争が起こります。

 

西南戦争は、鹿児島県だけでなく、熊本、宮崎、大分と広範囲に渡って起こった士族の武力反乱でした。

 

2月に始まった交戦は9月に士族側の敗北で終わります。この戦争での死者は、政府軍と士族側合わせて約1万3千名にのぼり、いかに大きな戦争だったかがわかります。

 

 

③神風連の乱が現代へ与えた影響

このように、神風連の乱はその後の士族反乱を引き起こす嚆矢となる事件でした。

 

そして戦後作家の三島由紀夫は、この神風連の乱に大変興味を持っていたということです。三島の最後の長編「豊饒の海」第二巻「奔馬は、神風連の乱に傾倒する青年を主人公としています。

 

三島は、対談や評論などで日本人論を語る際に、神風連の乱を引き合いに出すことが多かったということです。

 

また、トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」も、神風連の乱を始めとする不平士族たちを取り上げた映画でした。

 

渡辺謙が演じた勝元は、まさに西郷隆盛を彷彿とさせる人物であり明治天皇の側近でありながら、西洋化を進める明治政府に対抗して下野するという役で武士の誇りや気高さなどを表現していました。

 

まとめ

・神風連の乱とは、1876年10月に熊本県で起こった明治政府に対する不平士族の反乱である。

・反乱は、1876年に制定された廃刀令に反対して起こった。

・反乱のリーダーたちは、神道を重視する敬神党のリーダーたちで神職に就いていた。

・神風連の乱は、秋月の乱、萩の乱、西南戦争へとつながる不平士族の反乱のきっかけとなった。

・西南戦争の終結により、不平士族の反乱は鎮圧される。