右大臣と左大臣といえば、「昔の役所で位の高い人!」とイメージする方は多いかと思います。
しかし、それ以上詳しく知っている人はそんなに多くありません。
そこで今回は、「左大臣・右大臣」について理解を深めるために「右大臣と左大臣の違い」を詳しく解説していきたいと思います。
目次
右大臣と左大臣の違い
右大臣・左大臣は、律令制度の下で中央役所に置かれた最高官職のことです。
本来は太政大臣(だいじょうだいじん)が一番上の役職ですが、これは適任者がいないと空席でもよいという職だったため、左大臣(さだいじん)が最高役職であり、右大臣(うだいじん)がその補佐的な役目であったと言われています。
【今でいう、以下のような役職】
✔ 左大臣・・・内閣総理大臣
✔ 右大臣・・・副総理
つまり、官職での順位(偉さ)は「太政大臣→左大臣→右大臣」であり、右大臣よりも左大臣の方が役職位置は上となっています。
律令制度
この右大臣と左大臣はどのような立場にいる役職だったのでしょうか。
少し確認しながら見ていきましょう!
①律令国家の成立
飛鳥~奈良時代にかけて、天皇中心の中央集権国家をつくるべく、時の権力者はいろんな制度を整えていきましたね。
その集大成が701年大宝律令でした。
この律令に基づいて政治を行う国家が律令国家であり、その制度を律令制度と呼び、天皇と天皇から位を与えられ貴族となった有力豪族を中心に政治が行われていくようになったのです。
②役所のしくみ
政治を行う行政組織として、中央には「二官八省:にかんはっしょう」、地方では「五畿七道:ごきしちどう」が置かれました。
(1)二官八省
〇二官・・・神祇官(じんぎかん)と太政官(だいじょうかん)
〇八省・・・中務省(なかつかさしょう)・式部省(しきぶしょう)・治部省(じぶしょう)・民部省(みんぶしょう)・兵部省(ひょうぶしょう)・刑部省(ぎょうぶしょう)・大蔵省(おおくらしょう)・宮内省(くないしょう)
これらの定員は約6500人だったそうです。
(2)五畿七道
〇五畿…大和(やまと)・山城(やましろ)・河内(かわち)・摂津(せっつ)・和泉(いずみ)の畿内の五つの国
〇七道…東山道(とうさんどう)・北陸道(ほくりくどう)・東海道(とうかいどう)・山陰道(さんいんどう)・南海道(なんかいどう)・山陽道(さんようどう)・西海道(さいかいどう)という地方の「道」そのもの、プラス「道路沿いの連絡しあう国々の集まり」をさしていました。
現在の県庁にあたる国府(こくふ)を拠点にして統治する国司(こくし)には中央の貴族が任命され、その下の郡司(ぐんじ)には地方の貴族などが任命されました。
その他の要地には九州の太宰府や東北の多賀城などがあり、それぞれ役所がおかれました。
左右の優位性の理由
太政官の役職である「右大臣」「左大臣」ですが、本来の一番の役職である「太政大臣」に次いで、「左大臣」⇒「右大臣」の順に立場が異なっていました。
その理由についてみていきましょう。
①日本のしきたり
「左上右下(さじょううげ)」という言葉がありますが、聞いたことはあるでしょうか。
日本の伝統的な礼法のひとつで、左を上位、右を下位とするしきたりの事です。
これは元々、前記した律令国家形成時に手本とした中国、特に遣唐使をおくっていた唐の時代の考え方に影響を受けています。
唐の時代、『天子は太陽の方角、つまり南を向いて座る』という思想があったので、その影響を受けた飛鳥以降の日本でも、天皇は南に向かうように都が作られ、天皇が座った位置から左手となる東側から太陽が昇るので、こちらを「高位」にし、太陽の沈む西つまり右手側を「下位」としたのです。
現在の国会議事堂も中央から見て左側が貴族院の流れをもつ参議院側となっていますし、また舞台などをみても舞台側から左側を「上手」右側を「下手」とよんでいますね。
②中国の考え
日本に大きな影響を与えた中国の考え方ではありますが、実はずっと左上位ではなかったのです。
中国でも時代や王朝によって考え方が変化したらしく、周の時代には左上、後の春秋戦国時代~秦、漢の時代は右上になりました。
その頃に「左遷:させん」などという言葉が生まれたそうです。
確かに今も使われていますが、【現状より低い地位や役職になること】という卑下した意味になりますので、左を下にした考え方なら理解できますね。
そして唐時代以降中国では左上の考え方になっていった為、日本がそのまま左上位になったのです。
③その他の国
英語で『右』は『正しい』という意味を持つ「right」で表しますが、一般的に西洋では右が上位になっています。
さらにインドやインドネシアなどでは手づかみで食事をしていますが、左手は[不浄の手]として使用しませんし、犯罪者には右手を切り落として一生不浄の手で生きていくようにする、といった刑罰もあるそうです。
オリンピックの表彰式では“金メダル”を真ん中に、メダルを受ける側から見て右が“銀メダル”、左が“銅メダル”ですよね。
そしてサミットなどの国際的な場での立ち位置も、右のほうが上位となっていますので、多くの会議で各国の代表が並ぶときは立ち位置をみるのも一つのポイントです。
④国際儀礼と国内での意識変化
前述の例からも【国際儀礼:プロトコル】とする国際間のルールとしては右が上になっています。
この影響は日本でも明治期に近代化の流れとともにはいってくるようになりました。
折しも行政制度が“律令”を基にした律令制度から、“憲法”を基にした立憲国家としての内閣制度に代わっていった時期でもあります。
「左大臣」と「右大臣」の名称はなくなり、内閣総理大臣が行政のリーダーとなったのです。
そして現代の日本では右上左上が混在した状態になっています。
典型的なのが、雛人形の飾り方なのですが、京を中心とした京雛では古くからのしきたりに基づいてお内裏様が左側、お雛様が右側(こちらからみると右がお内裏様)になっているようです。
しかし、全国的に普及している雛人形は、天皇皇后両陛下の並び方をお手本としているため、お内裏様が右側(こちらから見て左)になっているのです。
ちなみに、ひな祭りの歌で<赤いお顔の右大臣~>というフレーズがあります。
本来の考え方でいうと左大臣の方が上位なので、赤い顔した髭のおじいさんは左大臣のはずでした。
単純に作詞家さんが左右の位置を間違えたとのことですが、向きの起点によって左右がややこしいのですよね。雛人形を並べる機会があればご注意ください。
また、実は大臣が“五人囃子”よりも下の段にいるのはおかしいという話もあります。
この二人が矢を構えてお内裏様にお付き添いするような姿をしているところからも、行政の1,2トップの左右大臣ではありえないので、この二人は厳密には「右近衛の少将」と「左近衛の中将」というお供をする方々ではないかとも言われています。
著名な左大臣、右大臣
最初の左大臣や右大臣は実はあまり知られていない方々になるのですが、有名な方でいえば、摂関政治の藤原道長&頼通親子は長く左大臣として政治を握っていました。
(藤原道長 出典:Wikipedia)
また、菅原道真のように死後に名誉回復の意味などで左大臣や右大臣の職を追贈された人も多くいます。
戦国~江戸期にかけて織田信長、徳川家康、豊臣秀頼などは「右大臣」の役職はもらっていたようです。
そして徳川将軍の多くは“武家官位”としての左大臣や右大臣になっていたりします。
特に11代の徳川家斉は右大臣にも左大臣にもなっていたようですね。
(徳川家斉 出典:Wikipedia)
まとめ
✔ 「右大臣」「左大臣」は律令の行政組織である太政官で「太政大臣」に次ぐ最高官職のこと。
✔ 「左大臣」が上で、「右大臣」は左大臣の補佐的役割だった。
✔ 「左大臣」は今の【内閣総理大臣】、「右大臣」は【副総理】のような役職である。
✔ “左上右下”の考え方は、遣唐使によって唐時代の中国の影響を受けてから広まった。
✔ 中国では時代や王朝により思想は変化したが、日本が影響を受けた時代は左上だった。
✔ 西洋では右上が基本な為、国際儀礼では右上となり、近年はその考えもはいってきた。
✔ 現在の日本では左上と右上の考えが混在している。
✔ 過去に多くの著名な「左大臣」「右大臣」がいたが、没後に役職を追贈される人もいた。
✔ 内閣制度への変更により、「左大臣」「右大臣」の名称はなくなった。