第二次世界大戦中、日本は日中戦争を継続するための大義名分として、東亜新秩序という構想を打ち出しました。
ところが、時代状況が変わっていくにつれて、この構想は拡大し、大東亜共栄圏という構想にたどり着きます。
今回は、『東亜新秩序と大東亜共栄圏の違い』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
東亜新秩序と大東亜共栄圏の違い
それぞれ以下のような意味になります。
✔ 東亜新秩序
1938年(昭和13年)に第一次近衛文麿内閣が近衛声明で表明した対アジア政策構想のこと。
✔ 大東亜共栄圏
1940年(昭和15年)に第二次近衛文麿内閣が唱え始めた対アジア政策構想のこと。
東亜新秩序は、1938年に第一次近衛文麿内閣が発表した声明(近衛声明)で表明された対アジア政策構想です。
長期化していた日中戦争を背景に、日本・満州・中国の3カ国が緊密な協力関係を築くことが謳われました。
他方、大東亜共栄圏は、1940年に第二次近衛文麿内閣が唱え始めた政策構想です。
従来の東亜新秩序を拡大し、インドやオセアニアを含む日本主導の巨大な経済圏を打ち立てようとするものでした。
日本は終戦までこの構想を持ち続けました。
当時の時代背景
東亜新秩序や大東亜共栄圏の発想は、1930年代後半に突然出てきたわけではありません。
その発想そのものは、欧米列強に対抗して東アジアの国々で団結しようという、明治初期の東アジア連帯論までさかのぼることができます。
明治初期の時点では、日本を含めた東アジアの国々が平等に団結する発想が主流でしたが、日清戦争・日露戦争を経ると、しだいに日本が中心となって東アジアの国々をまとめるという発想に変わっていきました。
この発想が一気に現実味を帯びるようになったのは、1931年から始まる満州事変においてです。
1931年9月の柳条湖事件をきっかけに、日本による満州侵略が本格化し、翌1932年には日本の傀儡(かいらい)国家として満州国が建国されました。
この時期には、日本と満州の経済圏を一体のものとして捉える「日満一体」という考え方が現れ、「日本の将来のためには、何としても満州の権益を守らなければならない」という主張が横行するようになりました。
東亜新秩序や大東亜共栄圏の発想は、こうした流れの延長線上にあります。
東亜新秩序の内容
(第一次近衛文麿内閣 出典:Wikipedia)
東亜新秩序は、1938年11月に第一次近衛文麿内閣が発表した声明の中に出てくる構想です。
この構想は、1937年7月以来続いていた日中戦争を収束させるために表明されたもので、その中身は、日本・満州・中国が協力して新たな経済圏を打ち立てるというものでした。
①経緯
1937年6月に発足した第一次近衛文麿内閣は、翌7月に勃発した日中戦争に対して当初は不拡大方針をとりましたが、軍部の強硬論に押し切られて、日中戦争を拡大させてしまいました。
そのため、以後は日中戦争をどのように終わらせるのかが、近衛内閣の課題となりました。
これを背景に近衛内閣は、1938年のうちに、今後の対中国政策の方針を表明するため、3度の「近衛声明」を発表します。
このうち、1938年1月に発表された第一次声明では、「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と断言し、中華民国国民政府と事実上国交断絶をすることを表明しました。
しかし、その後中国に進出していた日本軍が中国軍の激しい抵抗にあい、中国軍に対して決定的な打撃を与えることができなかったため、日中戦争は泥沼化してしまいます。
そのため、近衛内閣は同年11月に第一次声明の内容を緩和した第二次声明を発表します。
そこで表明された構想こそが「東亜新秩序」でした。
②具体的な内容
「東亜新秩序」と言う場合の「新秩序」とは、第一次世界大戦後に確立していた従来の国際秩序(ヴェルサイユ=ワシントン体制)に対抗して、日本が中心となり東アジアに新たな秩序を打ち立てるという意味合いが含まれていました。
東亜新秩序は建前上、日本・満州・中国が相互に協力して、欧米列強の植民地支配や、ソ連共産党を中心とした国際的な共産主義運動を排除し、日本を中心とした巨大な経済圏を作ることを目指すものでした。
しかし、実際は日中戦争を収束させるために、中国側の抗日論者を切り崩すとともに、日中戦争を遂行するための戦時経済統制を強めるという意図がありました。
また、「東亜新秩序を建設するためならば、日本が中国を侵略してもよい」というふうに、日本による中国侵略を正当化するための根拠としても使われました。
③影響
近衛内閣は、東亜新秩序を表明した第二次声明に続いて、翌月の12月にその延長線上で「善隣友好、共同防共、経済提携」を掲げた第三次声明を発表しました。
すると、日中の和平を期待していた中華民国国民党の副総理・汪兆銘はこれに呼応して、側近らとともに中国を脱出し、ベトナム・ハノイから中国国内の国民党に向けて、日本との和平交渉を進めるように働きかけをしました。
これが汪兆銘工作と呼ばれるものです。
ところが、中国国民党の中で汪兆銘に賛同する人は、結局わずかしかいなかったため、日本側が期待していたような中国側の抗日論者の切り崩しは成功しませんでした。
他方、日本のジャーナリズムでは、東亜連盟論、東亜協同体論、東亜ブロック論など、東亜新秩序に関する議論が盛んに論じられました。
特に、近衛文麿のブレーン集団「昭和研究会」のメンバーであった三木清や蝋山政道が論陣を張りました。
大東亜共栄圏の内容
(大東亜会議に参加した各国首脳 出典:Wikipedia)
大東亜共栄圏は、1940年に第二次近衛文麿内閣の外務大臣だった松岡洋右が最初に用いた言葉で、その後日本の対アジア政策のスローガンとなっていくものです。
①経緯
1938年11月の東亜新秩序建設の表明以降、日米関係が急速に悪化し、アメリカは日本に対して経済制裁を加えるようになっていきます。
アメリカ側は日本が中国大陸から手を引き、満州事変以前の状態に戻すことを求めていましたが、その要求は日本側にとって決して受け入れることができないものでした。
そこで、日本はアメリカの経済制裁が長引くことを見越して、アメリカに頼らずに石油を獲得できるように、東南アジアへの進出を模索するようになります。
そうした中で、大東亜共栄圏という構想が出てきました。
②具体的な内容
「大東亜共栄圏」という言葉自体は、1940年8月1日に、第二次近衛内閣の松岡洋右外相が記者に対して語った談話の中で初めて登場します。
(松岡洋右 出典:Wikipedia)
その談話では、日本の外交方針として、「皇道の大精神に則り、先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図る」と答えた上で、さらにその「大東亜」の範囲を「南洋をも含めての大東亜」であり、「仏印・蘭印その他を包含」していると述べました。
つまり、大東亜共栄圏の範囲は、東亜新秩序で範囲となっていた日本・満州・中国だけでなく、オセアニア地域、オーストラリア、フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)、オランダ領インドシナ(現在のインドネシア)を含むものとして表明されています。
こうして、大東亜共栄圏では、東亜新秩序の範囲を大きく拡大し、東南アジアやオセアニア地域、オーストラリアに至るまでを対象として、欧米列強の植民地支配から各国を自立させ、日本を中心とする巨大な経済圏を打ち立てることが謳われました。
しかし、その実質は東亜新秩序の場合と同様に、日本による侵略を正当化することにありました。
③影響
大東亜共栄圏の構想を受けて、新たに侵略した東南アジアにおける日本の権益を保護するため、1942年11月にそれを担当する専門の役所として大東亜省が設置されました。
また、1943年11月には、日本が中国・満州・フィリピン・ビルマ(ミャンマー)の代表者を東京に招き、大東亜会議を開催して、大東亜共同宣言を採択しています。
その後
大東亜共栄圏という言葉は、1941年にアジア・太平洋戦争が勃発すると、戦争遂行のためのスローガンとして盛んに使われるようになっていきました。
終戦後は、アジア・太平洋戦争を正当化する身勝手な理念として、連合国側から極東国際軍事裁判(東京裁判)で糾弾されました。
まとめ
✔ 東亜新秩序とは、1938年に第一次近衛文麿内閣が近衛声明で表明した対アジア政策構想のこと。
✔ 長期化していた日中戦争を背景に、日本・満州・中国の3カ国が緊密な協力関係を築くことが謳われた。
✔ だが、その実態は、欧米列強に対抗して、日本を中心とした経済圏を東アジアに打ち立てることにあった。
✔ 大東亜共栄圏とは、1940年に第二次近衛文麿内閣が唱え始めた対アジア政策構想のこと。
✔ 従来の東亜新秩序を拡大し、インドやオセアニアを含む日本主導の巨大な経済圏を打ち立てようとするものだった。
✔ 日本は大東亜共栄圏の構想を終戦まで保持し、戦争を遂行するための大義名分として使い続けた。