【寺子屋での学び】江戸時代の教育内容とは?仕組みや識字率・人数・年齢など

 

今では普通に行っている学校。

 

しかし、この学校ができたのは明治時代に入ってからのことでした。

 

では、明治時代以前は人々はどのようにして勉強していたのか?というと、なんと学校とは別に寺子屋と呼ばれる施設でやっていたのです。

 

今回はそんな江戸時代における勉強の場『寺子屋(てらこや)』について詳しく解説していきます。

 

そもそも寺子屋とは?

 

 

寺子屋とは、江戸時代初期に寺院などで農民に対して読み書きを教えた今で言うところの学校みたいな施設のことです。

 

この寺子屋は江戸時代中期となり政治の仕組みが文治主義となると爆発的に全国に普及し最盛期には全国で2万校ほどあったそうです。

(※ちなみに1校当たりの生徒数は、10-100人と言われています)

 

ちなみに、この寺子屋という名前は上方(大阪)などを中心のみの名称であり、江戸などでは筆書所と呼ばれていました。

 

寺子屋の生活や教育内容

(寺子屋の筆子と女性教師 出典:Wikipedia

①寺子屋の年齢・スケジュール

寺子屋の生活は今の学校と似てるということを書きましたが、実は寺子屋には今の小学校みたいに義務教育という制度はありませんでしたので完全なる任意でした。

 

そのため授業を受ける年齢もバラバラ。今と同じような年齢で入る人もいれば、文字の読み書きができるようになるために大人が入ることもしばしばあったのです。

 

でも、「農民にそんな暇とお金はあるの?」と思いの方がいると思いますが、寺子屋の月謝は家庭の事情に合わせて結構譲歩してくれたそうでお金の代わりに菓子折りを持ってきても良かったそうだったとか。

 

寺子屋が始まる時間は今の学校の水準のように午前8時から始まることが多く、終了時間は大体午後2時ほどが多かったそうです。

 

そのため農民も農作業を手伝いながら勉強をすることが可能だったのです。

 

②寺子屋の教育内容

現在では学校で習うことは文部科学省によって指定された科目を履修することでみんな同じ量の授業を行なっています。

 

しかし、寺子屋の場合は江戸時代の身分制度であった士農工商もあって・・・

  • 百姓なら百姓のための勉強内容
  • 商人なら商人の勉強内容
  • 武士ならば武士の勉強内容

など様々な身分に合わせて授業を行なっていました。

 

 

しかし、そうは言っても習っていた内容は結構シンプルなもので、文字の読み書きから始まり、そろばん、地理や歴史、服の裁縫、農業の仕方、武道など生活に必要不可欠な内容ばかりでした。

 

③先生はどんな人たちだった?

さてさてこれまで寺子屋のいろいろな仕組みを説明していきましたが、上にも書いた通り寺子屋は最盛期には2万校あったほど爆発的に普及していました。

 

しかし、そうなると起こりそうなものが先生の不足問題です。

 

でもご安心ください。寺子屋というものはもともと寺院が農民に対して読み書きを教える施設だったため寺の僧侶が本職の傍らで行なっていました。

 

そのため先生の不足ということはなく、さらに江戸や大坂などの都市部などでは藩が改易処分となって仕事を失った浪人達が僧侶の代わりに寺子屋の先生となっていたそうです。

 

ちなみに、元土佐の領主であった長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで改易となってから大坂の陣の時まで京都にて寺子屋の師匠として活躍したりしていたんです。

 

 

(長宗我部盛親 出典:Wikipedia

 

藩が建てた有名な学校「藩校」について

(水戸藩の弘道館 出典:Wikipedia

 

 

寺子屋と似たような勉強のための施設に藩校と呼ばれる施設が江戸時代にはありました。

 

藩校は寺子屋みたいな寺院が運営しているのではなく、藩自らが藩士や有能な人材を育成するために建てた今で言うところの県立学校みたいなものだったのです。

 

そのため藩校で習う内容は寺子屋に比べてハイレベルなものが多く、兵法や武芸や儒学や朱子学、さらに江戸時代後期に入り日本に蘭学が入ってくると蘭学や西洋医学などのヨーロッパの先進的な内容も習っていました。

 

ちなみに岡山藩の閑谷学校・長州藩の明倫館・水戸藩の弘道館が特に有名な藩校として知られています。

 

 

寺子屋と似ている学校「私塾」について

(松下村塾 出典:Wikipedia

 

 

寺子屋と似ている施設に私塾と呼ばれる民間の教育施設がありました。

 

民間という点では寺子屋と同じですが、何が違ったんでしょうか?

 

実は私塾は元々著名な蘭学者や儒学者が教えていたのが急速に生徒が増えて寺子屋みたいな形になったものがほとんどであり、その授業内容はオランダ語や高度な数学技術など寺子屋とは比べ物にならないほどハイクオリティなものだったのです。

 

寺子屋が小学校や中学校とするのであれば私塾は私立大学という表現が適切なのかもしれません。

 

ちなみに、長州藩の吉田松陰が先生として授業を行いのちの長州藩における大政治家を輩出した松下村塾や、大坂の蘭学者であった緒方洪庵が先生として授業を行い、福沢諭吉や大村益次郎や佐野常民などの著名な知識人を輩出した適塾がこの私塾の代表的な例として知られています。

 

ちなみに関西では京大に次ぐ賢い大学として知られている大阪大学はこの適塾がルーツなんですよ。

 

 

【識字率】以外に高い!?江戸時代における教育水準

 

こうして各地で藩校や寺子屋が建てられていき、日本津々浦々の人々が勉強していたわけなんですが、18世紀にこんな読み書きを勉強している国は稀。

 

ヨーロッパに目を当ててみると産業革命が起こっていたこともあり、国民の読み書きの度合いを示す識字率では18世紀のイギリスでは25%、フランスでは9%だったのに対し、日本はなんと70〜80%!

 

これにはのちに日本にやってきた外国人も驚きを隠せない模様で日本に来航したペリーも「この国の教育水準はすごい。いつかアメリカの強力な競争相手となるであろう」とコメントしたほど。

 

さらに、江戸時代後期に入ると上にも書いた通り藩の学校の中で蘭学が盛んに行われていくようになり、1854年に日本が開国した時に持ち込まれた蒸気機関や電信などといった日本と比べてかなり進んでいた西洋文明をあっさり吸収することができてさらに佐賀藩などはわずか1年でこの西洋技術を模倣しています。

 

このような日本の教育水準の高さがその後明治維新という奇跡的な文明開化がスムーズに行われたわけなんですね。

 

 

明治維新の突入!寺子屋から学校へ

 

 

江戸時代に入って沢山建てられた寺子屋ですが、江戸幕府が崩壊して明治時代が始まるとこの寺子屋は残念ながら消滅してしまいます。

 

確かに、寺子屋という施設は日本の教育レベルの高さに大きく影響していきましたが、その寺子屋の基準が全然定まっておらず、義務教育を導入したい明治新政府は寺子屋に変わる新しい教育施設を設置したかったのです。

 

そして明治5年(1872年)、明治新政府は学制と呼ばれる制度を施行。

 

義務教育を設定して全国各地に寺子屋に変わって新しく小学校が建設されていきました。

 

しかし、小学校を建てても先生がいなければ授業は行えません。

 

でも実は、その授業をする先生となったのがかつて寺子屋で農民の子供達に授業をしていた武士達だったのです。

 

寺子屋の歴史は明治時代に終結しましたが、その影響力は今にも繋がっているかもしれませんね。

 

まとめ

 寺子屋とは江戸時代において寺院や浪人が農民や武士の子に対して読み書きなどの勉強を教えていた施設のこと。

 寺子屋は江戸時代中期に入ると爆発的に増え、最盛期には2万校もあり農民のほとんどが勉強していた。

 寺子屋で学んだ成果もあり、日本における識字率は70〜80%という世界でも稀なほどのレベルの高さだった。

 寺子屋の他に江戸時代には藩校や私塾などもあった。

 寺子屋は明治時代に入って学制が発布されると廃止となりそのかわり小学校が誕生した。